先駆的だった?


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>1964年開設

前回のオリンピックの頃ですね。
なにか因果律をかんじてしまいます。

「1964年開設のやまゆり園の歴史は日本の障害福祉政策の歴史そのものだ」ということですが*1、荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』では、1960年代前半(昭和30年代後半)当時の「障害者」を巡る状況について、以下のように述べられています。

(前略)当時の身体障害者福祉法は、更生や社会復帰を基本理念としていたため、生産活動の見込めない(つまり身体機能の改善を見込めない)重度障害者(児)は対象外となっていたのです。
特に身体障碍と知的障害(当時の名称は「精神薄弱」)を併せ持つ重症心身障害児たちは、極めて厳しい状況にありました。当時の制度では、この二つが縦割りに設計されていたため、両方を備えた子どもは、どちらの救済対象にもならず、かといって重い障害があるため児童福祉法の対象にもならなかったのです。
こうした子どもを守るために、草野熊吉(家庭裁判所調停委員・一九〇四~九九年)、小林提樹(小児科医・一九〇八~九三年)、糸賀一雄社会福祉家・一九一四~六八年)*2といった篤志家による壮絶な努力によって、「秋津療育園」(一九五八年開設)、「島田療育園」(一九六一年開設)、「びわこ学園」(一九六三年開設)といった施設が開設されましたが、収容者数は圧倒的に不足し、国からの補助も頼りない状況にありました。(pp.27-28)
また、映画作家松山善三*3や作家の水上勉*4障碍者施設の充実や政府援助(福祉予算)の増大を訴える文章を発表していた*5。1960年代前半には、「障害者の親(家族)や、その親たちを支援しようとする福祉・教育・医療の専門家らが中心となった」「各障害種別の団体が相次いで結成された」(p.26)。
そうした状況を承けて、1960年代後半になると、大規模な障碍者施設の建設が相次ぐようになる;

この時期、障害者(児)の親たちが強く求めたのは、障害者(児)が長期的に生きていける入所施設の建設でした。「自分たちが亡くなった後、わが子をどうすればよいのか」といった心配は、多くの親たちが共有する最大懸案事項だったのです。
一九六五年、佐藤栄作首相の諮問機関であった社会開発懇談会は、中間報告で、軽度障害者はリハビリテーションによって社会活動に復帰させ、一般社会への復帰が難しい重度者は大規模施設に収容する方針を示しました。これを機に、いわゆる「コロニー構想」が立ち上がったのです。
「コロニー」とは、もともとは「植民地」「移民地」「移植地」を意味する言葉ですが、そこから転じて〈保護、治療、訓練などのために地域社会から隔絶された人たちの施設の総称〉を指すようになりました(『日本大百科全書』「コロニー」より、岩永理恵執筆箇所)。
当時の新聞を確認すると、「コロニー」には〈障害児の村〉という形容が付いたり、〈総合保護施設〉とルビがふられたりしています(「身障児対策を推進」『朝日新聞』一九六五年九月五日)。〈村〉〈総合保護〉という言葉からも察せられるとおり、多くの障害者を長期にわたって収容することを想定した施設です。
こうして一九六〇年代末から七〇年代にかけて、重度心身障害者を収容するための施設が立て続けに建設されていきます。当時建設された「東京都立府中療育センター」(一九六八年)、「愛知県心身障害者コロニー」(一九六八年)、「大阪府立金剛コロニー」(一九七〇年)、「のぞみの園」(群馬県高崎市、一九七一年)などの施設は、その多くが街中から離れた郊外に位置する大規模なものでした。
現在では、「ノーマライゼーション」という観点から、重い障害がある人も街中で生活できるように環境を整えていこうという考えが主流となって久しいのですが、当時は、障害者(児)を抱える家族の苦しみに寄り添い、障害者(児)を専門の福祉施設へと入居させることが強く求められていたのです。(pp.30-31)
障害者差別を問いなおす (ちくま新書)

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