大飯原発の近く

小林敏明*1「若狭にて」『図書』(岩波書店)841、pp.20-23、2019


禅僧儀山善*2福井県大島半島*3大飯原発*4の近くで生まれた。


山善来は大拙承演と並んで、江戸末期の臨済禅を主導した人である。幕末から明治初期にかけて活躍する由利滴水(天龍寺管長)、今北洪川(円覚寺管長)、荻野独園(相国寺管長)は彼らを師と仰ぎ、この流れからはさらに釈宗演や雪門玄松などの高僧も出ている。すでに『夏目漱石西田幾多郎』(岩波新書、二〇一七年)に書いたので、詳しくは述べないが、この臨済禅のネットワーク下にあったのが、山岡鉄舟、北条時敬、菅虎雄、夏目漱石西田幾多郎鈴木大拙などであり、それ以外にも、中江兆民島崎藤村などが一時期この宗派に関わったことがある。
こうした錚々たる人びとを繋ぐネットワークの始まりになったのが儀山善来と大拙承演の二人であることを指摘して広めたのは、幼少期に寺での小僧体験もある作家の水上勉だが、興味深いのは、この二人がともにこの大島半島の出身だったということである。つまり、この若狭の小さな僻村から出た二人の影響下に明治を代表する高僧や学者、文学者、それに政治家が生まれているということである。ちなみに福沢諭吉のもとで英語を学び、禅の海外普及に努めた円覚寺管長の釈宗演は、漱石の『門』の老師のモデルとなった人物としても知られるが、彼もまた若狭大飯は高浜の出身である。大飯町出身の水上にとってはいずれも同郷の先輩ということになる。滴水の出身地丹波もさほど遠くはない。
この人脈ネットワークが興味深いのは、これがさらに富山の高岡から金沢にかけての広がりをもっていることである。独園の弟子に水上勉の『破鞋』(岩波同時代ライブラリー、一九九〇年で
知られている雪門玄松という風狂の僧がいる。雪門は一時期高岡国泰寺の管長としてその再興に務めた人だが、これを物心両面で援助したのが、幕末の英傑の一人といわれる一刀流の達人山岡鉄舟である。このころ青年鈴木大拙が高岡に雪門を訪ねており、やがて国泰寺を去って金沢の卯辰山の麓に庵を結ぶと、今度は大拙の親友西田幾多郎との師弟関係が始まるのである。西田の号「寸心」はこのとき雪門から授かったものである。こうした関係を仲介したのが、彼らの先生にあたる北条時敬であり、北条は鉄舟などと並んで、当時 今北洪川が推し進めた在野禅運動の模範生だった。漱石に禅を仲介した親友の菅虎雄もまたその一人であり、北条とは円覚寺での京大弟子の仲である。(p.21)
門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

水上勉*5の生家跡(大飯町岡田地区);


私が生まれ育った若狭の生家は、村で乞食谷と呼ばれた谷の上にあった。人間は暮らせないところだということか、死体を埋めるさんまい谷のとば口にあり、谷の所有者で松宮林左衛門という素封家の薪小舎を狩りて住居にしていた。借家といっても家といえるようなものではなく、松宮家のその粗末な木小舎を、父が大工なので暇々に家らしく改築していったわけである。*6
案内されて行った場所は、その松宮家の裏の栗畑といった感じで、とてもここに家が建っていたとは思えない。「墓場」も「谷」のイメージもなく、全体に小説やエッセイを読んで想像していた地形よりもはるかに平坦である。家事に水を利用していたという傍らの小川もコンクリートの溝渠になっていた。西安寺はもっと高台にあると思っていたが、これも違った。この百年の間に家屋や道路に変化が生じたせいもあるだろうが、水上自身が作家のイマジネーションを発揮して、自分なりの風景に仕立て上げていたこともあるだろう。しかし、ファンとして長らく読んできた作家の生まれ育った土地にやっと立てたというだけでも、十分に満足のいく探訪であった。(p.23)