佐野眞一『旅する巨人』

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 (文春文庫)

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 (文春文庫)

佐野眞一『旅する巨人 宮本常一渋沢敬三*1を読了したのは先々週のこと。


第一章 周防大島
第二章 護摩をのむ
第三章 渋沢家の方へ
第四章 廃嫡訴訟
第五章 恋文の束
第六章 偉大なるパトロン
第七章 父の童謡
第八章 大東亜の頃
第九章 悲劇の総裁
第十章 ”ニコ没”の孤影
第十一章 萩の花
第十二章 八学会連合
第十三章 対馬にて
第十四章 土佐源氏の謎
第十五章 角栄の弔辞
第十六章 長い道


あとがき
文庫版あとがき
関係人物略年譜
取材協力者一覧
主要参考文献一覧
解説(稲泉連


人名索引

宮本常一渋沢敬三の伝記。著者によると、「はじめは宮本単独の評伝をと考えていたが、取材をすればするほど、渋沢敬三の存在と意味が大きくなり、渋沢を除いて宮本の評伝は成り立たないと思うまでになった」(「あとがき」、p.456)。また宮本にしても渋沢にしても、祖父の代に遡って記述されている。これは著者が、宮本常一にせよ渋沢敬三にせよ、その人格の成立が祖父及び父親の大きな影響を受けていると考えているからである。渋沢敬三の場合はかなりネガティヴな影響。
少し抜書きする。この本における著者の宮本常一に対する〈総論〉的な印象;

宮本常一は、今日の民俗学の水準からは想像もできないような巨大な足跡を、日本列島のすみずみまで印した民俗学者だった。その徹底した民俗調査の旅は、一日あたり四十キロ、のべ日数にして四千日に及んだ。
宮本は七十三年の生涯に合計十六万キロ、地球を丁度四周する気の遠くなるような行程を、ズック靴をはき、よごれたリュックサックの負い革にコウモリ傘をつり下げて、ただひたすら自分の足だけで歩きつづけた。泊めてもらった民家は千軒を超えた。
宮本と親交の深かった作家の高田宏は、宮本のことを空前絶後の旅行者だといい、宮本を超える旅行者はもう絶対に現われないだろうといった。一定程度の交通網が整備された時代に生まれた宮本は、自分の足だけで旅をしなければならなかった江戸時代の旅人とも、また、海外にもひとっ飛びで行ける現代の旅人とも違って、日本列島をいわば等身大の大きさで、くまなく歩くことができた旅人だった。
のちに宮本の恩師となる渋沢敬三は、日本列島の白地図の上に、宮本くんの足跡を赤インクでたらしていくと、日本列島は真っ赤になる、と評した。
(略)
昭和の菅江真澄とも、旅の巨人ともいわれながら、没後十五年目にして、いまだ宮本の評伝らしき評伝が現われていないのは、一つにはこの厖大な著作が壁となっている。さらにいえば、宮本の関心対象が、単に民俗学の領域にとどまらなかったことにも、その理由を求めることができるだろう。
口承文芸からはじまった宮本の関心は、生活誌、民俗学、農業技術から農村経済、はては塩業史、民族学、考古学、日本文化論にいたるまで果てしなく広がっていった。
よく宮本の学問には、体系がない、方法論がない、といわれる。たしかに宮本の著作には、論考なのか随筆なのかわからない文章が多く、その意味で、宮本を一つの学問領域に限った専門学者と定義することを困難にさせている。いわゆるアカデミズムの世界での宮本評価が低いのは、たぶんそのためである。
柳田国男以降、おそらく最大といっていい業績をあげながら、宮本はわが国の民俗学徒の間で、皮肉にも、彼の代表的著作と同じ”忘れられた日本人”と同然の立場に置かれつづけてきた。
柳田国男の評伝が数十冊となく書かれ、柳田ゆかりの土地にいくつもの記念館が建てられているのに比べ、宮本の故郷、周防大島東和町(現・周防大島町)には記念館一つもなく、宮本を知る人もほとんどいなかった。
宮本の生前の業績を偲ばせるものは、農業をつづけながら生家を守る八十五歳のアサ子未亡人によって整理された著作の書棚と、(略)芳名帳があるだけだった。この家にはアサ子未亡人の他、農業を受けついだ宮本の次男の光とその妻の紀子、その間に生まれた三人の子供の五人が暮らしている。壁に孫たちの描いた絵が貼られた生家の雑然としたたたずまいは、しかし、知の殿堂入りを拒否した歩く学者、宮本常一にいかにもふさわしく感じられた。
だがその反面、宮本は、網野善彦安丸良夫鹿野政直鶴見俊輔鶴見良行など、民俗学以外の学問を専門とし、いわゆるアカデミズムとは一線を画した人々によって、高く評価されてきた。宮本家の芳名帳にある水上勉加藤秀俊、高田宏なども宮本の古くからの敬愛者であり、平成八(一九九六)年二月に死去した司馬遼太郎もまた宮本を高く評価した一人だった。(pp.10-12)
忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)


アカデミズムというものが、事実の重みの前にほとんど解体されてしまった現在、宮本常一評価の風がかすかながら吹きはじめてきたことは、私には当然のことと思われた。
宮本が長らく忘れられていたのは、もう一つには、マルクス主義を絶対とする立場の人々から、保守主義というレッテルのなかに宮本がずっと封じこめられてきたせいだろう。宮本が、近代化によって忘れられた土地と人々のなかに、否定的要素ではなく、あえて肯定的要素を見出し、人々を明るく励ましていこうとしたことは事実である。
そのことを六〇年代の革新主義的学者たちは、没批判の現状肯定の姿勢ととらえた*2。だが、イデオロギー支配の時代が完全に終わりを告げ、また、高度成長からバブルの時代を経て、日本の近代化がどこにも光明を見出せないまま行き詰まりをみせている現在、宮本の仕事の確かさに人々が気づきはじめたのも、またごく自然の流れのように思われた。
歴史学者網野善彦民間学の鹿野正直、そして故鶴見良行らが、宮本の著作を大学の講義テキストとして使ったというのは、その一つの現われだったといえる。鶴見良行の評価を決定づけた『バナナと日本人』や『ナマコの眼』は、宮本が日本列島を歩き、見て、聞いた手法を忠実に踏襲し、そえをアジア世界まで拡大していった仕事だった。
思えば、紋付、袴に白足袋をはき、農政官僚や朝日新聞論説委員の肩書きをもって、日本列島を”治者”の眼差しで旅し、昭和三十七年、民俗世界が根底からくつがえされた高度成長期の日本をみることなく瞑目した柳田国男は、きわめて”幸福”な民俗学者だった。
これに対しゲートルばきの宮本は、山口県周防大島の百姓という以外何ひとつ肩書きらしい肩書きをもたず、しばしば富山の薬売りと間違えられながら、戦前、戦中、そして高度成長期以後の荒廃する日本列島を、おそらく胸ひきさかれる思いで歩いた。それでいて、宮本の文体に一切の詠嘆調も湿りっ気も感じられないのは、貧農の出身という彼のたくましい出自や、楽天的なパーソナリティーに大きく由来している。それに加えて、長い民俗調査で培った該博な知識が、宮本をニヒリズムの淵に追いやることから救った。(pp.13-14)
バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ (岩波新書)

バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ (岩波新書)


(前略)宮本の弟子たちは誰もが口をそろえたようにこういった。
「宮本先生は誰でもその気にさせてしまうそそのかしの天才だった」
宮本には本格的な学問を積んでこなかったという意味で、終生、ニセ学者、うさんくささのイメージがまとわりついていた。だが、その反面、そこいらの畦道を歩いている農夫とかわらぬ風貌と、それを裏切るような該博な知識は、いわゆるアカデミズムの世界からは絶対生まれ得ず、その風貌と知識の落差自体が、学生をはじめ宮本の周囲の者をとりつかれたように魅了した。
宮本が単なる民俗学者であっても、また逆に、離島や僻地に軸を据えた社会運動一筋の活動家であっても、周囲の者に、民俗ドキュメンタリー映画*3郷土芸能*4まで幅広い仕事を組織させる気にはさせなかっただろう。そこに学者でありながら、決して学者にはとどまらない宮本の真骨頂があった。(pp.394-395)

柳田国男は郷里からの一家の離脱という不幸な出郷により、以後郷里とのつながりを失なうが、宮本は終生家郷とのつながりを失うことはなかった。
近代において、宮本ほど家郷とのつながりを率直に語った知識人はおそらくいないだろう。宮本はその意味で、石川啄木はじめ故郷への呪詛を通じて近代的個を確立していった多くの知識人たちとは、明らかに一線を画していた。
宮本の家は貧しくはあったが、肉親の温かい愛情と家庭環境、そして温暖で風光明媚な瀬戸内の風土が、それをおぎなってあまりあるほどカバーして、宮本のなかに理想の故郷像を結ばせていた。東北など酷薄な気象とは対極にあるその故郷では、飢饉の悲惨さを実際にみることもなかった。宮本の学問が必要以上の荘重深刻な使命感を持たなかったことは、そのことと密接に関連しあっていた。
また宮本ほど西日本に思い入れの強かった民俗学者も例がない。これも故郷への強い愛着ゆえだった。宮本は日本全国を旅したが、『忘れられてた日本人』のあとがきでも述べているように、どちらかといえば西日本を集中的に歩き、東日本は佐渡などを除けば、あまり熱心に歩いていない。
その理由について宮本は、今の学問の中心は東京にあり、地方を頭に描く場合もたいてい東日本の姿が基準となっている、マスコミでよく騒がれる姑の嫁いびりの問題にしても、親のいいなりに結婚することの多かった家父長制支配色の強い東日本にかなり特有な出来事ではないか、と述べている。
柳田は生涯、天皇制権力に直結する米の問題に関心をもったが、宮本は米よりもむしろ庶民になじみの深いイモの問題に関心を注いだ。思えば宮本が意識的に歩いたのは、焼畑林業を生業とする土佐の山中であり、山の頂上まで段々畑が広がる瀬戸内の島々であり、漁業で生計をたてるしかない玄界灘の離島だった。宮本は、稲穂が風にそよぐ東日本に典型的な水田風景には、ほとんど目もくれなかった。
そうした西日本偏重の視点は、宮本民俗学の一種の限界だともいえた。だが、権力に虐げられた民衆という、東北地方などを語るときに必ずつきまとう歴史的構図や、それに随伴した日本近代の暗部や不幸、そしてそれに反逆する形の庶民の奸智、狡猾の部分だけをいいつのってきた感のある日本の類型化された学問のありかたに、宮本民俗学がひとつの風穴を開ける結果になったことも事実だった。(pp.434-435)
本書の読み物としての山場は、宮本常一が調査した対馬高知県檮原を著者が踏査する第13章「対馬にて」と第14章「土佐源氏の謎」だろう。特に後者では、宮本の名作「土佐源氏」の事実誤認の意味に迫っている。
さて本書で〈悪役〉を振り当てられているのは柳田国男と、若い日に柳田から破門の憂き目にもあったことがある*5人類学者の岡正雄*6だろう。岡正雄についての批判的記述は主に戦時中に軍部とつるんでえぐいことをしたことに向けられている(特に第8章「大東亜の頃」)。これについては後日独立して言及するつもりだが、佐野眞一氏のキャリアにおいては、岡正雄等の戦時中のえぐい所業への関心が、その後里見甫を描いた『阿片王』や甘粕正彦を描いた『甘粕正彦 乱心の曠野』*7のような戦時中の中国大陸を舞台にした作品を書かせる契機になったということは記しておくべきだろう。
阿片王―満州の夜と霧 (新潮文庫)

阿片王―満州の夜と霧 (新潮文庫)

著者は渋沢敬三柳田国男を比較して、「柳田と敬三の周囲の人々に対する姿勢の違いは、つまるところ、”治者”として人の上に君臨する立場に終生固執した男と、近代的バンカーとして人を育てあげようとした男との根本的な違いだった」と書いているが(p.161)、少し長い引用を行う;

大正二年の「郷土研究」創刊以来、柳田の許には数多くの門弟が参集していた。だが、最後まで柳田の許に残る門弟はほとんどいなかった。原因の大半は、柳田のあまりにも厳格な学問的態度にあった。
「郷土研究」などの機関誌を通じて地方の郷土史家に寄稿を求め、郵便を媒介とした掲載誌の発送で民俗学のネットワークをつくりあげていくという柳田の発想は、当時とすればなかなか斬新なものだった。だが柳田はそうした類まれなるオルガナイザーの手腕を発揮しながら、資料の客観性を重視するあまり、寄稿家の文章に事前の断わりもなく手を入れ、一方的に発表することが少なくなかった。柳田の周囲にはいつしか不満がくすぶるようになっていた。
柳田にこうした態度をとらせたのは、新しい史学を樹立するという気負いにあったが、勝手に手を入れられた地方の郷土史家たちは柳田との間に次第に溝を感じるようになっていった。
一方、柳田の許に直参した弟子たちも、同様の感情を抱くようになっていた。愛知県から画家になることを志して上京し、柳田の実弟日本画家松岡映丘に師事したことが機縁となって柳田に弟子入りした早川孝太郎は、柳田にこうした疎遠な感情を抱いた最初の一人だった。
早川は「郷土研究」以来の同志でありながら、柳田からは専門的採集技能者としてしか遇されていなかった。一データマンとしてしか扱ってもらえない不満は、やがて早川をして柳田の許を去らせる引き金となった。その不遇の早川を温かく迎え入れたのが敬三だった。(pp.150-151)
柳田の「学問的態度」が「厳格」であったかどうか、また彼が「資料の客観性」を実際に重視したかどうかは自明ではないが、2点指摘しておくと、柳田には東大国史学科を頂点とする〈歴史学〉への対抗意識が強かったこと*8、そして何よりも単一の〈日本〉を構築しようとする意志が取り敢えず挙げられるのではないか*9
ところで、初めて読んだ宮本常一の本は中公新書の『絵巻物に見る日本庶民生活誌』だったのだが、これと巻末の文献目録にある『絵巻物に見る日本庶民生活誌』(昭和五十六年三月 私家版)との関係や如何に?
絵巻物に見る日本庶民生活誌 (中公新書 (605))

絵巻物に見る日本庶民生活誌 (中公新書 (605))

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120412/1334193128

*2:藤田省三による宮本批判については、第14章、p.372ff.を参照のこと。

*3:姫田忠義。See pp.391-392

*4:鬼太鼓座」の創始者、田耕=田尻耕三。See pp.393-394

*5:See p.154ff.

*6:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091103/1257222859 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091205/1259982847 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091211/1260555922 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091214/1260817819 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091216/1260975714

*7:See also http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20110205/1296868669 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110209/1297220910

*8:これは折口信夫にも、宮本常一にもなかったことではないだろうか。

*9:これについて、赤坂憲雄『山の精神史』、『漂泊の精神史』をマークしておく。

山の精神史―柳田国男の発生 (小学館ライブラリー)

山の精神史―柳田国男の発生 (小学館ライブラリー)