母にはなれぬ運命

梨木香歩*1「うつくしい保険1」『毎日新聞』2020年9月6日


抜書き。


アメリカのフロリダ州で来年二〇二一年から、遺伝子操作したネッタシマカを約七億五千万匹放つ計画が実行されるようだ。ネッタイシマカデング熱やジカ熱、黄熱病などを媒介する蚊で、放たれる予定のものは、(生殖可能な)成虫になる前に死ぬ運命の雌しか生まれないよう、遺伝子が操作されている。血を吸うのは雌の蚊だけだから、これは合理的である、と膝を打つ人びともいるのだろう。しかしこの計画には、本能的に不気味なものを感じてしまう。反対する団体の「本当に環境リスクはないのか」という声が上がるなか、正式承認された模様。

七年ほど前、スウェーデンエーランド島を車で走っているとき、南部の石灰岩平原にあるリンネ研究所にお邪魔した。ここでは、世界各国の研究機関に呼びかけて昆虫の数の変化を記録、地球規模の温暖化現象を明らかにしていこうとの壮大なプロジェクトが進行中であったのだった。そんなことは全然知らずに「立ち寄ってしまった」のだが、そのときも十数名の研究員たちが、0・五ミリほどの翅があって飛ぶ昆虫、彼ら曰く、「蚊とかハエとか」を分類中だった。ただひたすら0・五ミリ以下の翅を極細のピンセットで丁寧に採ってケースに収めているのだが、見ているだけで息が詰まってくる。けれど彼らは、朝から晩まで顕微鏡の前に座っていても、苦にならないばかりか、もっとやりたいくらいとおっしゃるのだ。なかでも蚊のエキスパートである、少女のように若くて可憐なエリカ・リンドグレンさんは、「大きな哺乳動物のことになるとみんな必死になるのに、もっと小さなものにも関心を持ってもらいたい。蚊って二千五百種もいるのに、そのなかで血を吸うのはたった七種。なのにみんなに嫌われて。蚊って、本当にうつくしい生き物なのよ」。白い頬を紅潮させ、夢中になって蚊の魅力を語った。(後略)