誕生は受動態であること

私は自らの誕生を能動態で表現することができない。英語だとbe bornという受動態であるし、日本語の生まれる(産まれる)は自発ということになるだろうか。


梨木香歩*1「生命は今もどこかで1」『毎日新聞』2020年4月19日


曰く、


(前略)生物は、生まれる場所を選べない。そして、生まれる時代も選べない。縁あって同じ地所に生きているなら贔屓の引き倒しで応援したい。その延長線上で、自分の国を応援したい気にもなる。高校野球で無意識に自分の生まれ故郷のチームを応援しているのといっしょで、それは本能のようなものだ。だからこそ、自分の子や孫のような球児を命の危険に遭わせる指導者がいたら腹を立てるのは当然だ。
近頃、「文句をいわず、国民が一丸となってこの難局を乗り切ろう」という言葉を聞くようになった。ここから「進め一億火の玉だ」「欲しがりません、勝つまでは」まではあっという間だ。コロナ拡大を防ぐため、それをやるべきとみなが納得し、結果的に同じ行動(スーパーなどで間隔をとる、から、やはりここに留まるのが一番、まで)をとってしまう、というのではなく、盲目的に足並み揃え一丸となれとけしかけるのは恐ろしいことだ。ましてお上のいうことには黙って従おうなどと、若い人びとに呼びかけるのは。本来一丸などなれるわけがないのだ。この多様な個人の集合体が。そこに「心」の無理がある。まず自分で考える。そのために必要な情報はすべて与えられて然るべき――それがどんなに絶望的でも、事実だと直感したら、最善の選択をする人びとが数多く出てくる。足並みは、その結果揃うものだ。どんなときでも、信用できない相手に自分を明け渡してはならない。かねてから信頼できる政府が、利権など眼中になく必死になってなりふり構わず出してくる案なら、「うん、どうなるかわからないけど、やってみて」と運命を託す気にもなるというもの。文句をいうな、などとは、独裁に加担することで、狂気に近い。現に今の政府の方針に「文句」が上がったからこそ、○○商品券配布などのどこを向いているのかわからない思いつきが軌道修正されてきたのではないか。(ここまで国民を裏切ってきた)政府のいうことに、今黙って従えというのは民主主義を自ら手放すことだ。先の戦前、戦中も、政府に協力してファシズムへの道を加速させた芸能人や文化人が大勢出た。今、誰がそういう発言をするのか、心に刻んでおこう。そしてすべてが過ぎ去った後には、過ちをしない人間はいない、ということを。人間とはこういうものだ、という、かつてない学びのときである。
先週末、梨木香歩さんの本を1冊買った。『ピスタチオ』(ちくま文庫、2014)。
ピスタチオ (ちくま文庫)

ピスタチオ (ちくま文庫)