- 作者: 吉野源三郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1982/11/16
- メディア: 文庫
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梨木香歩「今、『君たちはどう生きるか』の周辺で」『図書』(岩波書店)832、2018、pp.2-5
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』*1を巡って。
少し抜書き。
最近「インスタ映え」*2という言葉が流行している。スマートフォンなどで撮影した画像をインスタグラムとして日記代わりに発信し、その際の見映えを評価する言葉だ。なかには自分の生活の一コマを切り取り続け、それを第三者の目でリポートするという作業が間断なく続くものもある。リポートする側に自分の主張がある者は少なく、大部分がただ事実を羅列して受取手の反応を待つ。以前は限られた職種の、職能のようなものだった「発信する」という行為が、誰でもなしうる日常的なものになってしまった、これはその結果の一つだろう。
これもコペル君風に言えば「見られている自分」を「見ている自分」ということになるかもしれない。しかしそれとコペル君と叔父さんの間で語られる「世界を客観視すること」(そしてコペル君はさらに自力で「人間分子の関係、網目の法則」にたどり着く)との間には決定的な違いがある。人目を引くことに価値を置き、他者に評価してもらって初めて安心する、きわめて主体性の希薄な日常が透けて見える。ほとんどが消費されて消えていく日々。(p.3)
自分をジャッジする視座を外界に置かず、自身の内界に軸足を持つ、コペル君の内省はそのための足場作りのようなものだ。それに比して、昨今の「見られている自分」を「見ている自分」の、背筋が凍るほどの空虚さ(これはこれで実は、人類の精神世界がここから先、予測もつかない別次元へ行くのではないかと本気で思っている(ほどである)が、今は「ここ」にとどまって話を進めたい)。評価する主体をこちら側に取り戻したいという無意識の欲求が、広くこの「流行」*3の底にあるのではないか。吉野源三郎のヒューマニズムは、止むに止まれぬものとして、自身の内側を貫いて出てくるものである。そこに他者の視線は関係ない。(p.4)