「共有」される「独我論」

竹内綱史「西洋批判の哲学」(伊藤邦武、山内志朗中島隆博納富信留責任編集『世界哲学史7――近代II 自由と歴史的発展』ちくま新書、pp.71-95)


このテクストの主役はアルトゥール・ショーペンハウアーとフリードリッヒ・ニーチェ
ショーペンハウアー*1の『意志と表象としての世界』(『世界』)の冒頭のセンテンスは「世界は私の表象である」。これは「世界とは私の意識に映るものでしかない、という意味である」(p.77)。そして、「これは(略)独我論――真に存在するのは私だけであり、私以外の世界は私の意識のなかにのみ存在するにすぎないという考え方――の宣言であるように思える」(pp.77-78)。竹内氏は、


少し考えてみればわかるように、独我論を否定するのは難しい。というより、不可能である。「私」とは「世界」が演じられる舞台そのものであり、諸事物も他人たちもすべて「私」の意識のなかに存在するということは、原理的に否定できないのである。これは実に奇妙である。しかも、さらに奇妙なことには、私たちは独我論について「語り合う」ことができる。独我論とは、定義上、「他者」が存在しないものであるはずである。しかし、まさに私のこの文章を読んで、読者は、「確かにそうだ」とか、「いやそんなはずはない」とか、想うことができる。なぜか、私「たち」は、独我論を「共有」できるのである。したがって、独我論は否定できないが、その独我論的「私」がなぜか無数に存在し、唯一の世界のなかに共に存在しているのだ。この極めて奇妙な事態が、『世界』の出発点である。(pp.78)
と述べている。このパラグラフを読んで、思わずショーペンハウアー凄ぇ! と心の中で叫んでしまった。しかし、「この極めて奇妙な事態」は「万人共通の唯一の認識主観」の導入によって解決されてしまうのだった。「認識主観は唯一であり、その唯一の認識主観が唯一の世界を成り立たせて」おり、その「認識主観が各身体に「宿る」のだ、と」ショーペンハウアーは考える(pp.78-79)。これで脱力してしまった。そこかよ! 多分、今後ショーペンハウアー歴史のお勉強以外の目的で読むということはないだろう。21世紀に生きる20世紀人の私にとっては、その「独我論」的情況から、間主観性の問題、さらには解釈共同体や公共性の問題が頭を擡げてくるわけなのだけど。
ところで、ショーペンハウアーフロイトに影響を与えている(p.75)。或る意味で、彼はフロイトだけでなくて、ユンクとも対極的な思想家なのだなと思った。