ダーウィン/マッハ/ニーチェ(メモ)

木田元「哲学と文学 エルンスト・マッハをめぐって」(in 『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』*1、pp.63-120)


抜書き。


力学的自然観を否定してマッハが描いてみせる感性的諸要素の織りなす現象の世界は、ニーチェが最後期(一八八五〜八八年頃)の「力への意志」の哲学で描こうとしていた遠近法的展望の世界とひどく似たところがあります。実はニーチェも、ダーウィンの『種の起源』や『人間の由来』を読み、強い衝撃を受けているのです。遺されている断片的な覚え書を見ると、なるほどダーウィニズムの環境決定論や機械論的な自然選択説には反撥していますが、進化思想そのものには強く共感し、それまでのショーペンハウアー流の生の概念、つまり生をまったくの無方向的な生命衝動と見るような考え方を放棄し、生とは「つねに現にあるよりもより強くより大きくなろうとする意欲」だと考えるようになり、それに〈力への意志〉という新しい呼び名を与えているのです。たしかにこの時代、ただ〈生〉と言えば、誰でもがショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』[一八一九年]の〈意志〉、つまり無意識的で無方向な生命衝動を思い浮かべるものでした。ニーチェ自身も、若いときにこの本から深刻な影響を受け、処女作の『悲劇の誕生』[一八七二年]*2では、ショーペンハウアーのこの〈意志〉の概念を〈ディオニュソス的なもの〉という概念に承け継いだのですが、一八八〇年代半ばになってショーペンハウアーの影響を完全に脱却し、進化論の影響のもとに新たな〈生〉 の概念を獲得したので、これに新たな呼び名を与える必要があったのでしょう。この時代のニーチェにとって〈生〉とは、はっきりと方向をもって、より強くより大きく生成していこうとする〈力への意志〉だったのです。
そして、ニーチェ最後期のこの〈力への意志〉の哲学においては、〈世界〉とは、生成のそのつどの段階で相対的に持続しとどまっている生命体(つまり力への意志)のまわりに、それにとって意味をもつものだけがその側面の度合いに応じて遠近法的に配置されて現われてくる展望にほかなりません。そこでは、その現われの背後にあるとされるようないっさいの形而上学的〈背後世界〉は否定されます。ニーチェのこの〈遠近法的展望〉としての世界と、マッハの〈現象的世界〉とはほとんど重なり合うものです。(pp.89-90)
悲劇の誕生 (岩波文庫)

悲劇の誕生 (岩波文庫)

なお、「ニーチェもこの最後期に、ほんの数回ですが、〈現象学〉という言葉を使って」いる(p.90)。