「2回生のとき」に

世界の共同主観的存在構造

世界の共同主観的存在構造

  • 作者:廣松 渉
  • 発売日: 1972/10/01
  • メディア: 単行本

佐藤優*1「なつかしい1冊 廣松渉著『世界の共同主観的存在構造』」『毎日新聞』2011年1月9日


曰く、


私が同志社大学神学部の2回生のとき(1980年)、神学部自治会(ノンセクト新左翼系)の友人、滝田敏幸君(千葉県議会議員自民党)、大山修司君(日本基督教団膳所教会牧師)たちと読書会を行い熱中して読んだ本だ*2。京都の新左翼系学生たちの間で、廣松渉氏の著作は古典的地位を占めていた。ただし、私たち神学生は廣松氏の著作を革命論としてではなく、無神論者の教科書として読んだ。逆説的だが、私たちはこの本を精読することによってイエス・キリストという人間になった神の存在に対する確信を強めるようになった。廣松氏は縄を蛇と勘違いした人の例を挙げる。
〈さて、「友人が縄を蛇として錯視している」「彼は私が彼の錯視を察知したことに気付いている」という二重の意識事態において、反省的にとらえかえせば、能知的な主体はいずれも私である。とはいえ、再確認するまでもなく、私としての私にとっては縄はあくまでも縄であり、友人にとってはそれは端的に蛇なのであるから、蛇としての錯視ということは、私が友人の立場を観念的に扮技しつつしかも自己にとどまっているbei sich seinかぎりで、すなわち”彼としての私”にとってのみ意識される事態である。また「彼は察知されたことに気付いている」と意識する場合にも、謂うところの彼は、反省的には同じく”彼としての私”ないしは”私としての彼”であって、単なる私ではない〉
誰かが神がいると信じていても、逆に神がいないと信じていも、他者はそれが錯視と考えることができるという以上のことは言えないのである。要はどのような主観が共有されているかだ。「神という作業仮説を信じながら進んでいこう」というコンセンサスが神学生の間で出来た。これが廣松哲学の正しい解釈であったかどうかはよくわからない。しかし、この本を読むことで私は自分のキリスト教信仰を強めることができた。
『世界の共同主観的存在構造』、現在では岩波文庫版も出ているが、1980年当時だと、勁草書房版になるだろう。実は、私もやはり1980年、大学2年生のときに『世界の共同主観的存在構造』を読んだのだった。但し、孤独に。