「クレバー」な麻原(小川国夫)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明、小川国夫「宗教論争」*1(in 『宗教論争』、pp.193-230)から。
先ずは、吉本による麻原彰晃についての、おいおい! という感じの発言;


(前略)麻原が言っていることは、今は宗教としか呼べないものですが、例えば遺伝子生物学が発展していけば、科学と宗教が同じものになるかもしれない。遺伝子を主体に考えれば、遺伝子はは親から子へと伝わるんですから、前世も来世も存在すると言えます。ただ、それでは、遺伝子を擬人化しすぎだと思います。それに、オウムの修行によって前世に遡れると言っても、それを信じることはできないんですね。親鸞は修行をしてはいけないと言っていますから、初めから信じることはできないと僕は思っています。受精以前に遡れるというのは、無意識を一種の幻覚・幻想と接続できなければ駄目です。
しかし、無意識と幻覚の間の関係を考えていけば、宗教でいう前世・来世に対する、精神科学的な理解は成り立ち得るのではないでしょうか。つまり、フロイトのいう無意識をさらに範囲を拡げて考えると、宗教によって幻覚をつくり出すという現象を科学的に解釈できるのではないでしょうか。そういう期待を持っているし、オウムは無意識の問題を改めて示唆してくれた。僕は信と不信の境界に興味がありますから、そこが関心の中心になりますね。(p.203)
この吉本発言をうっちゃる小川国夫の仕方がとてもスマート;

僕は吉本さんの関心の方向と熱意には完全に同意するんですが、その先は違う意見なんです。結論から言えば、麻原は早まったと思う。吉本さんが考えているような今の思想界の一つの問題について、麻原は仏教的な雰囲気のなかで、解決の暗示のようなものを非常に巧く投じたということも事実です。しかし、自分が尊師になるために仏教を利用しただけとも言える。
そもそも、仏教の輪廻転生というのは、キリスト教の神学などに較べれば相当に科学的です。古代に、現代科学とも通じうるような考え方を持っていたというのは、諸宗教の中でもかなり進んでいる。ショーペンハウエルも、仏教を大変褒めています。宗教は民衆の哲学・民衆の学問であるという観点から見ると、最も卓越しているのは仏教であると。また、宗教ですから、そういう科学的知識の上に、倫理や心の問題といった超科学的な部分を乗せているわけですが。その論理のつなぎかたも、仏教は割合うまくいっているのではないかと思います。
ですから、古代仏教に注目している学者も多いですし、そこに向かう世間の大きな関心の流れもあったわけです。その流れに麻原は巧く乗っかった。乗れるというのは、それだけクレバーだということで、非常に通俗的な思惑があるという気がします。(p.204)