両義性へ

花澤茂人*1「旧統一教会問題と宗教 善悪で色分けできぬ」『毎日新聞』2022年11月16日


曰く、


(前略)[統一協会]教団による反社会的な行為を明らかにして被害者を救済し、見過ごされてきた政治家との関係を追求することは重要だ。ただ、高みから「悪い宗教」を懲らしめ、社会から追い出すことを「正義」とするような風潮には疑問を感じる。宗教は単純に善悪で色分けできない。その危うさを見極めて共存していくには、誰もが自分自身の問題として向き合うことが必要だと思う。

私は10年ほど前から宗教の取材を続けている。特に信心深い家庭で育ったわけではなく、むしろ小学生の頃にオウム真理教事件が起き、親から散々「宗教には気をつけなさい」と言われた。しかし仏像への興味を入り口に仏教に触れ、奈良や京都での取材で人の苦悩に寄り添う僧侶に感銘を受けた。宗教は人生を豊かにすると感じるようになり、僧籍も取得した。

宗教とどう向き合えば良いのか。「こうすればいい、という公式はありません」。宗教学者浄土真宗本願寺派僧侶でもある釈徹宗相愛大学長に問うと、そんな答えが返ってきた。社会ではいかに愚かに思えることでも、信仰に基づけば正当化し得る。無限の奉仕や献身、あるいは暴力や差別。「『カルト』に限らず、宗教には家庭や個人の日常をあっさりと壊すような強烈な力がある。社会を運営する側、特に政治家などはそこに厳しく対峙すべきです」
一方で「だからこそ宗教は、社会の価値観では対応できない悲しみや苦しみへの大きな救いにもなり得る」とも。「良い宗教と悪い宗教があるのではなく、どんな宗教にも両面があると考えた方が良い」。人間は長い年月をかけ、信仰を守りながら社会生活を営むバランス感覚を育んできた。反社会的な活動を罰して思考停止するのではなく、「一人一人が丁寧に向き合い続けることが必要なのです」。

印象的なエピソードを紹介したい。取材で知り合った男性(41)が事件*2直後SNS(ネット交流サービス)に「20年前の僕と山上容疑者*3にはいくつもの重なる点があった」と書き込んでいるのに目が留まり、聞かせてもらった話だ。
男性は幼い頃から両親との墓参りなどで、生や死を身近に感じながら育った。小学生の頃に2人の兄が荒れ、父親は民間の霊能者、母親は新宗教に救いを求めた。「独特の仏壇にぬかずく姿を異様だと思うことはあったが、家族に押しつけてくることはなく、嫌ではなかった」と振り返る。
20年ほど前、急な不幸が重なる。祖父が亡くなり、翌月に母が急死。落ち込んだ父は5カ月後に脳梗塞で倒れ、その2カ月後には長兄が自ら命を絶った。そして2年後、父も死を選んだ。明確な理由は今も分からない。「父の葬儀で、次兄と『次はどっちかな』と話していた。そんな中で自身を支えたのは、死者の存在だった。「母が亡くなった時、その魂のようなものが自分の毛細血管にまで染みこんでくる感覚があった。兄や父の時もそう。死んでも一緒にいると実感できた」。どの宗教の影響かは分からないが「幼い頃から身近に祈りや弔いの文化があったことが、結果的に自分を救ったと思う」と話す。宗教的な感性によって生きる支柱を得る人も確かにいる。