熊倉功夫『後水尾天皇』*1から。
後水尾院は文禄5年(1596年)に誕生したが、その4か月後、元号は「慶長」に改元された。つまり、彼は「慶長の年号とともに年齢を重ねることになる」(p.9)。
慶長(一五九六―一六一五)という時代は、戦国時代の終焉と江戸時代の開幕をつげる大きな転換期であった。なるほど政治史のうえからいえば、織田信長の上洛した永禄十一年(一五六八)に戦国時代は終っていたともいえよう。しかし、戦国の時代をつき動かしていた下剋上の精神は、一朝にして失なわれることはなかった。信長に上洛をうながし天下統一を志向させたのも、その信長が明智光秀のクー・デタに倒れるや、光秀を破って天下人として豊臣秀吉が登場してくるのも、時代の相に、その行動を正当化する下剋上の精神が働いていたからだ。とすれば政治的に天下統一が完成したとき、統一者にとっての次の課題は。この下剋上の精神の凍結でなければならない。天正十九年(一五九一)二月二十八日、千利休*2の切腹は、「下剋上の精神」の凍結の冷酷な宣言であった。
秀吉が利休に切腹を命じた理由は諸説あって明らかでない。しかしその根本には、秀吉の心に利休が創った茶の湯を否定しようとする気持があった。秀吉にとって利休の茶の湯は魅力と危険を含んだ数寄であった。利休の高弟山上宗二の筆記(『山上宗二記』)によれば、利休の茶とは「山ヲ谷、西ヲ東ト、茶ノ湯ノ法ヲ破」るものであった。常識を破り、既成の法にとらわれぬ自由なふるまい――。利休は茶の湯において下剋上の精神をつらぬこうとする。その自由なふるまいは、利休の高弟山上宗二の目からみれば、「名人」という稀有な存在においてはじめて赦されるものであった。しかし「天下人」としての秀吉の立場からすれば、名人たりといえども利休のこうしたふるまいは許容しがたいものであったろう。なぜなら、利休のこうした創造的な美の発見が、茶の湯の上でも絶対者であろうとする秀吉の権威をたえず危うくするからである。(pp.9-10)
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/12/17/202404
*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091203/1259779839 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160307/1457323811 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/06/29/124222 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/06/07/163752