複製技術と音楽その他

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050819で取り上げた、『戦争の記憶をさかのぼる』に、『週刊少国民』(朝日新聞社)1942年11月1日号の「巻頭グラビア」が載せられている(p.203)。時の首相・東條英機が国会議事堂を背に乗馬している写真。この写真に添えて、北原白秋が「東條さん」という詩を寄せている*1。何故こんな話を持ち出したのか。例えば、中国では現在でも東條英機は(日本人としては)SMAPや濱崎歩と同じくらいか或いはそれ以上の有名人である。また、靖国神社の祭神から東條英機を外せば、日中関係も丸く収まるともいわれている。しかし、考えてみると、日本においては、東條英機の存在感は稀薄である。日本では、〈教科書問題〉に見られるように、歴史認識問題を巡って鋭角的な対立が存在しているといっていいだろう。そこにおいてどちらの立場に身を置いているにせよ、東條英機の(憎悪や賞賛の対象になりうる程の)活き活きとした人物像を描ける人はどれだけいるのだろうか。正直言って、私は東條英機に殆どリアリティを感じていない。勿論、基礎的な知識は持っているつもりだ。しかし、それだけ。このリアリティの稀薄さというのは、当時東條とタメをはっていた筈の、蒋介石ルーズベルトスターリンチャーチル以下である。リアリティということだと、かのラスト・エンペラー溥儀にも劣る。この写真を見て、改めて、東條も当時はいっぱしのセレブを気取っていたんだと再認識した次第。それも白秋の詩を従属させるという仕方で。X-JAPANを従属させる小泉の如くともいえようか。東條のセレブ気取りというのも、当時はやはりリアルだったに違いない。それに対する現在におけるほぼ忘却に等しいリアリティの喪失。この稀薄さは、その後東條が巣鴨プリズンの露と消えたこと*2に関わっているのではなくて、戦争犯罪人に対する怒りに関わっているというよりも、戦時中に東條をセレブとして遇してしまったことに対する気恥ずかしさに関わっているのかも知れない。


 さて、


Naomi Klein
"Racism is the terrorists' greatest recruitment tool"


 7月21日のロンドンでの2回目のテロに加担したとされるHussein Osmanは、伊太利警察当局の尋問に応えて、テロの動機は「イラク戦争についてのフィルム」を観たことだと述べたという。Osmanは、そこに「極端な人種主義」を「知覚」したのではないか。つまり、西側の人間とアラブ人若しくはムスリムとりわけイラク人との間にある、それぞれの生死の価値の「露骨な不平等」。
 Naomi Kleinさんは"the intellectual architect of radical political Islam"といわれるエジプトの思想家Sayyid Qutbを取り上げる。彼がその過激なイスラーム主義思想に目覚めたのはアメリカ留学中であった−−"The puritanical scholar was shocked by Colorado's licentious women, it's true, but more significant was Qutb's encounter with what he later described as America's "evil and fanatic racial discrimination"." また、


By coincidence, Qutb arrived in the United States in 1948, the year of the creation of the state of Israel. He witnessed an America blind to the thousands of Palestinians being made permanent refugees by the Zionist project. For Qutb, it wasn't politics, it was an assault on his core identity: clearly Americans believed that Arab lives were worth far less than those of European Jews.
 エジプトに帰国し、「ムスリム兄弟団」に加入すると、今度はナセル政権による弾圧。彼の政治思想を形成したのは「拷問」である。Qutbの政治理論では、「人間以下の不信心者(subhuman infidels)」が構築されるが、この「人間以下」というカテゴリーは、直接手を下した「拷問者」から、さらには「ナセル体制に受動的に支持を与え」ている「ムスリム市民」まで拡がってしまう。これによって、「イスラームの名の下に」万人を「不信心者」として殺害することが可能になるのだ。これはアル=カイダに受け継がれることになる−−"so-called Islamist terrorism was "home-grown" in the west long before the July 7 attacks - from its inception it was the quintessentially modern progeny of Colorado's casual racism and Cairo's concentration camps."
 Kleinさんによれば、Qutbの事例から汲み取るべき教訓は、

Why is it worth digging up this history now? Because the twin sparks that ignited Qutb's world-changing rage are currently being doused with gasoline: Arab and Muslim bodies are being debased in torture chambers around the world and their deaths are being discounted in simultaneous colonial wars, at the same time that graphic digital evidence of these losses and humiliations is available to anyone with a computer. And once again, this lethal cocktail of racism and torture is burning through the veins of angry young men. Qutb's history carries an urgent message for today: it's not tolerance for multiculturalism that fuels terrorism; it's tolerance for barbarism committed in our name.
ということである。ブレアは、一方では「今まで以上の[怪しいと思われた]人々を[帰れば]拷問に多分直面するであろう国々へ送還することを意図する」ことによって、他方では「兵士たちが自分が破壊している町の名前を知らないような」戦争を続行することによって、「爆発寸前の環境(explosive environment)に踏み込んでしまった」。「人種差別」についてはどうなのか。Kleinさんは、

The Islamic Human Rights Commission received 320 complaints of racist attacks in the wake of the bombings; The Monitoring Group, a charity that provides assistance to victims of racial harassment, has received 83 emergency calls; Scotland Yard says hate crimes are up 600% from this time last year. And last year was nothing to brag about: "One in five of Britain's ethnic-minority voters say that they considered leaving Britain because of racial intolerance," according to a Guardian poll in March.
と数字を挙げる。さらに、英国を初めとする欧州諸国で実践されているマルティカルチュラリズムは、"a Faustian bargain, struck between vote-seeking politicians and self-appointed community leaders, one that keeps ethnic minorities tucked away in state-funded peripheral ghettoes while the centres of public life remain largely unaffected by seismic shifts in the national ethnic makeup"にすぎないのだとという。そして、結論は、

The real problem is not too much multiculturalism but too little. If the diversity now ghettoised on the margins of western societies - geographically and psychologically - were truly allowed to migrate to the centres, it might infuse public life in the west with a powerful new humanism. If we had deeply multi-ethnic societies, rather than shallow multicultural ones, it would be much more difficult for politicians to sign deportation orders sending Algerian asylum seekers to torture, or to wage wars in which only the invaders' dead are counted. A society that truly lived its values of equality and human rights, at home and abroad, would have another benefit too. It would rob terrorists of what has always been their greatest recruitment tool: our racism.

 Alex Ross
 "An art without a face"

 
 アメリカの指揮者・作曲家であるJohn Philip Sousa*3は、20世紀初頭にレコーディングが音楽を滅ぼすを予言したという。Alex Ross氏によれば、


The phonograph would erode the finer instincts of the ear, end amateur playing and singing, and put professional musicians out of work. "The time is coming when no one will be ready to submit himself to the ennobling discipline of learning music," he wrote. "Everyone will have their ready-made or ready-pirated music in their cupboards." Something is irretrievably lost when we are no longer in the presence of bodies making music, Sousa said.
 現在、Sousaの予言は外れたかのようにみえる。今や、音楽は「世界に遍在している」のだから。ただ、"for most of us, music is no longer something we do ourselves, or even watch other people doing in front of us. It has become a radically virtual medium, an art without a face."という変容はあるが。
 Sousaの予言というのも、テクノロジーに対する2つの立場(楽観論か悲観論か)のヴァリエーションに属するといっていい。Ross氏は中庸の途を採る−−"For music to remain vital, recordings have to exist in balance with live performance, and live performance is now by far the smaller part of the equation."
 レコーディングの両義的な効果ということで、

Recording broke down barriers between cultures, but put more archaic musical forms in danger of extinction. In the early 20th century Bela Bartok, Zoltan Kodaly and Percy Grainger used phonographs to preserve the voices of elderly folk singers whose timeless ways were being stamped out - by the phonograph, with its international hit tunes and standardised popular dances.
という例が挙げられる。さらに、レコーディングに向いた音と向かない音ということで、ルイ・アームストロングが言及される*4

From the start, the phonograph favoured brassy singing, knife-edged winds and brass, the thump of percussion - whatever could best puncture surface noise. Louis Armstrong's trumpet blasted through the crackle and pop of early records like no other instrument or voice of the time - he was Caruso's heir. Pianos, by contrast, were muffled; violins were all but inaudible. Classical music, with its softer-edged sounds, entered the recording era at a disadvantage. The age of the cowbell had begun.


Recording has the unsettling power to transform any kind of music, no matter how unruly or how sublime, into a collectable object, which becomes decor for the lonely modern soul. It thrives on the buzz of the new, but it also breeds nostal gia, a state of melancholy remembrance and, with that, indifference to the present; you can start to feel nostalgic for the opening riff of a new favourite song even before you reach the end.
ここで語られているのは、先ず音楽の〈個人化〉であろうか。そして、音楽享受における奇妙な時間性。例えば、クラシックの場合、プレイヤーもリスナーも「自分たちはテクノロジカルな領域の外部に生きているという幻想に浸っている」。そこで育まれるのは"an atmosphere of timelessness, of detachment from the ordinary world"である。だから、クラシックのレコーディングで強調されるのは「リアリズム」。自らがレコーディングであることを否認するような、或いは忘れさせるようなレコーディングが好まれる。ただ、そうした〈自然性〉の効果を産出するために(逆説的にも)オヴァーダビングなどの〈人為性〉が使用されてはいるのだが。
 Ross氏によれば、「レコーディングのパラドックス」というのは次のようなところにある;

The paradox of recording is that it can preserve for ever those disappearing moments of sound but never the spark of humanity that generates them. This is a paradox common to technological existence: everything gets a little easier and a little less real. Then again, the reigning unreality of the electronic sphere can set us up for a new kind of ecstasy, once we unplug ourselves from our gadgets and expose ourselves to the risk of live performance.
そして、このエッセイの終わりに向けて、グレン・グールドとライヴから撤退をした後期のビートルズが言及される。そこで、Ross氏はグールドのコンサート滅亡論に反駁するのだけれど、ここではその反駁の是非、また2つの『ゴールドベルク』或いは『ラバー・ソウル』とSPLHCBとの比較の是非は問わない。
 Ross氏のレコーディングとライヴは相補的なものであるという意見は妥当なものだと思う。しかし、レコーディング/ライヴの対立或いは相補性に拘ってばかりいると、より本源的且つ重要な対立から目を背けてしまうことになるのではないだろか。私は音楽における複製技術を巡って、リスナーの自律性や音楽という閉域への〈外部〉の侵犯ということを絡めて、「現代社会における音楽の存立構造」という拙稿(in 『ソシオロジカル・クエスト』)で語ったことがあるので、ご笑読いただければ幸いです、と自己宣伝。
 Ross氏は語っていないが、またかなり昔にブライアン・イーノがどこかで語っていたのだが、複製技術が音楽の享受の仕方に与えた変容としては、反復的・選択的聴取というのがある。ベートーヴェンハイドンの時代、大曲の場合、リスナーがその曲を聴くというのは一生にほぼ一度に近かった。一度聴けば、その曲とは記憶を通して(勿論、スコアを通してという途もあるが)しか接触することができなかったのである。作曲家としても、そのようなリスナーの記憶に何とか印象を刻みつけるために、(大仰とも思えるような)リフレインやメロの進行を工夫したともいえる。複製技術は、そのような〈一期一会〉性を稀薄にするとともに、同じ曲を何度でも反復して聴くということを可能にしたのである。複製技術の時代においては、ライヴ体験といっても、既にCDとかを通じて〈予習済み〉であることが多いということを考慮しなければならない。現代社会における藝術経験の変容の一つとして、〈一期一会〉性の希薄化ということはいえるのではないだろうか。ヴィデオ以降の映画、video on demand或いはハードディスク・レコーダー以降のTV。

 8月20日は、西郷信綱『日本の古代語を探る−−詩学への道』(集英社新書)を読了する。
 西郷氏はいうまでもなく、1916年生まれの日本古代文学研究の碩学。私も以前『古事記の世界』(岩波新書)とか『古代人と夢』(平凡社)を読んで大いに啓発されたのだが、ずっと西郷氏のテクストからは遠ざかっていた。
 本書には書き下ろしを含めた11篇の論攷が収録されているが、ここで取り敢えず焦点を当てられるのは、タイトルにもあるとおり、「語」である。それも私たちの身体とその身体を座標軸として構成される世界にとって基本的ともいえる言葉たち。例えば、「木」であり、「旅」であり、「東・西・南・北」という方位であり、「ヲコ」であり、「シコ」である。また、『古事記』にある「葦原中国」と「豊葦原水穂国」という国名。
 本書の叙述から、私たちは「木」が「大地に生えている毛」(「木は大地の毛であった」、p.16)であり、「石」が「山の骨」であった(「石の魂」、p.128)古代の意味世界の一端に触れることができるのだが、本書で著者が行おうとしていることは、ごく大雑把にいえば、このある時期以降「日本」と呼ばれるようになった土地で、言葉が〈王権〉とか〈国家〉に捕捉される*5以前に遡行すること、またその言葉たちを、捕捉される以前・以後において言葉を発語していた人々の身体性という準位において理解しようとすることなのだろうと思う。このことが困難な課題だということは明らかだろう。何しろ、私たちが「古代語」に接近するためには、残された文字テクストを手がかりにするしかない。しかし、その文字テクストは言葉が〈王権〉とか〈国家〉に捕捉されて以降の産物であり、捕捉以前の消息というのは痕跡として垣間見られるにすぎない。身体性についても同様だろう。そもそも、文字テクスト*6というのは、言葉が発話された、或いは言葉が書きつけられたその現場における生々しい身体性から切断され、仮死状態に置かれているからこそ、時空を隔てた私たちにその姿を曝すことができるのである。
 〈捕捉〉以前の痕跡ということだと、(古代ではなく)中世の『作庭記』を論じた「石の魂」において、『作庭記』の


 先石を立つることは、まづ水のまがれるところをはじめとして、おも石のかどあるを一つ立てて、その石のこはん[乞はん]を、かぎりとすべし。
とか

 石をたつるには、多くの禁忌あり。一つもこれを犯しつれば、あるじ常に病ありて、つひに命を失ひ、所の荒廃して必ず鬼神のすみかとなるべしといへり。
という一節を踏まえながら、

儒教的な帝国または一神教的な帝国が組織されるにつれ、地上の霊たちは零落を余儀なくされるか、天上に吸いとられ滅んでゆくかする。そのような帝国の制覇することのなかった古代・中世の日本には、さまざまな古い霊たちが、むろん姿をやつしながらもなお根強く生息し続けてきたように思う。石の霊もその最たるものの一つである(p.133-134)。
と述べられている*7
 だが、言葉の〈王権〉とか〈国家〉による捕捉という問題に真正面から挑んでいるのは、「「豊葦原水穂国」とは何か−−その政治的・文化的意味を問う」だろう。『古事記』で使用されている「葦原中国」と「豊葦原水穂国」とはどう違うのか。「葦原中国」は「大国主が国ゆずりするより前の、つまり高天の原から新たな王が降ってくる以前のこの国土」(p.156)*8。これに対して、「豊葦原水穂国」は「いわゆる天孫降臨と不可分に結びついた語」(ibid.)。また、「この国における王制の開始を神話的に告げる語」(p.195)。曰く、

 高天の原から新たな王が穀霊として降臨するとともに、「葦原中国」はたんに葦の葉のざわざわとさやぐ国であることから、水々しく稲穂のみのる「水穂国」へと変貌する。つまり「豊葦原水穂国」は日本国の古称でも美称でも異称でもなく、この「葦原中国」にそれを支配する王制が新たに開始されることを、まさに高天の原から予告し予祝する神話的な用語に他ならないのである(p.163)。
また、

 葦と稲は同じ生態系にぞくするけれど、葦が未開の自然であり混沌であるのにたいし、稲は人の手の栽培になる文化であり秩序であるという対抗関係も同時にそこには存する。こうした二重性を「豊」という祝辞でめでたく一語に織りなしたところに、「豊葦原水穂国」という語の独自性はある。この語の用法が『日本書紀』で乱れたのは、「葦原中国」というもののもっていた存在感が時代変化のなかで急に薄れ、あるいは忘却されるに至ったあかしにほかならない。現に『書紀』ではこの「葦原中国」の棟梁である大国主は、ただ国ゆずりするための神へとすっかり矮小化されてしまう。『古事記』が大きく取りあげた例の沼河比売求婚の歌謡とか、いわゆる稲羽の裸の兎の話とか、スサノオの棲む根の国訪問の話なども、そこにはもう語られることがない。高天の原の使者タケミカヅチと争ったタケミナカタも、もとより登場しない(pp.193-194)。
 身体性という準位で言葉を理解するということでは、例えば「「タビ」(旅)という語の由来」。そこでは、「旅」から旅の枕詞「草枕」を介して、「タ(田)」、「田のなかの伏屋」(p.26)、「農夫が家を離れ、そこで地べたに伏せてひとり丸寝する小屋」(p.28)としての「田廬(タブセ)」が喚起され、さらに〈伏せる〉、「地べたに伏せ」るという身体的所作が喚起される。また、「「シコ」という語をめぐって」。そこでは、著者は万葉集防人歌の

 今日よりは 顧みなくて 大君の しこ(之許)の御盾と 出で立つ我は

に、「手盾」を「勢いよく地に突っ立てる音」(p.140)を聴きとり、舎人皇子の

 大夫[ますらを]や 片恋せむと 歎けども 鬼[しこ]のますらを なほ恋ひにけり

から、「こん畜生とばかり身体的に両足を地に踏んづけて己をののしっている」(p.150)さま、すなわち〈地団駄〉という所作を喚起する。

 著者は「あとがき」で、「既発表、未発表の雑文を「日本の古代語を探る」という名のもとに一冊の本にまとめようとしたせいで、古典のコトバに対し次に何をすべきかが、ようやく見えて来たような気がする」(pp.197-198)と書いている。ということは〈次〉があるということだ。



 〈郵政民営化〉問題或いは総選挙についてだけれど、deadletter氏が「「シングルイシュー」を争点にした選挙、というアジェンダセッティングは欺瞞的だ」と明確に述べている。また、〈郵政民営化〉それ自体は、氏と同様に「どうでもいい問題」だとは思っている。つまり、〈民営化〉それ自体に対しては、積極的に賛成したり・反対したりする気にはなれない。どちらかといえば、〈反対派〉の方に説得力があるように思えるが。〈反対派〉の主張として、取り敢えずわかりやすかったものとして、辻元清美社民党「郵政民営化は、まやかしだ」を挙げておく。また、共産党の主張としては、矢守一英「郵政民営化のごまかし」。但し、そもそも〈反対〉にせよ、〈郵政民営化〉問題を声高に叫ぶということ自体が、敵の「アジェンダ・セッティング」を正当なものとして認めてしまうという逆説はありますね。ところで、〈反対派〉の意見としてのhttp://blog.livedoor.jp/ganbare_watashi/archives/30176736.htmlはどうよ。「我々は農耕民族だ。狩猟民族ではない」*9とかさ。グローバリズムへの反発が文化本質主義、文化的ナショナリズムに陥ってしまうというまた別のパラドックス。  

*1:掲載された写真では、白秋の詩文は判読不可能。本文にも引用なし。

*2:自らかの「戦陣訓」を発布したにも拘わらず、自決し損ねて、自ら「生きて虜囚の辱を受け」てしまったことは皮肉といえば皮肉。

*3:See http://en.wikipedia.org/wiki/John_Philip_Sousa or http://www.karadar.com/Dictionary/sousa.html

*4:引用部分にあるCarusoはEnrico Caruso。テノール歌手。Ross氏は"phonograph's first great star"であるという。

*5:これは「文字のまだない世から文字のある世への移行」(「言葉について」、pp.7-8)とも重なる。著者によれば、『古事記』における「コト」と『日本書紀』における「コトバ」の差異はこの「移行」を「暗示」しているという。

*6:実は以下に述べられたことというのは、書き言葉に限らず、一切の言語的なるものの存立の条件をなしていることは勿論であるが。

*7:著者が「むろん姿をやつしながらもなお」という限定的な表現をしていることを忘れてはならない。

*8:この対立は、「一種の自然的な領有」としての「ウシハク」と「一貫した政治的な支配または統治」としての「シル」との差異にも対応している(p.158)。

*9:実際、日本の狩猟文化は、地方過疎化と高齢化によって急速に衰えているといってよい。それは熊が出没したときに、TVのニュースに登場する〈猟友会〉の面々をみても明らかだろう。「我々は農耕民族だ。狩猟民族ではない」という言説のリアリティはここにあったりして。