「誰もみな島」/『僕の叔父さん 網野善彦』

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050820で、西郷信綱『日本の古代語を探る』を取り上げたが、西郷先生はその序文に中たる「言葉について」で、「言葉」という言葉を巡って、「例えば歌集とか経典とか、紙上に書きつらねられた文字たちの姿を前にしたとき、その語を比喩的に植物の葉と受けとるのは、ごく自然の成りゆきではないかと思う」と述べ、「"Words are like leaves"(言は木の葉のごとし)という十八世紀英国のある詩人の比喩句」を引いている(p.9)。「十八世紀英国のある詩人」とは誰なのか。無知なる私には??だったけれど、Googleしてみれば、Alexander Popeの言葉であることが分かる*1。また、出典たる"An Essay on Criticism"はhttp://eserver.org/poetry/essay-on-criticism.html その他で読むことができる。



 さて、たしかノヴァリスに「イングランド人はだれも島なり」という句があったけれども、John Harding"Every man is an island"を読んでみる。『オデュッセイア』から『ザ・ビーチ』に至るまでの西洋文学における特権的なトポスとしての「島」を辿るエッセイ。
 先ず最初に掲げられるのは、"the most famous island book of them all"である『宝島』の著者スティーヴンソンの言葉−−"Few men who come to islands leave them; they grow grey where they alighted; the palm shades and the trade winds fan them till they die, perhaps cherishing to the last the fancy of returning home...no part of the world exerts the same attractive power."
 Harding氏によれば、「島」が文学のトポスであり続けたことには、「心理学的理由」と「実践的(practical)理由」*2があったという。「心理学的理由」であるが、ユンクが持ち出される。つまり、


 海   無意識
 島   自我或いは意識的自己


というわけだ。私なら、液体/固体の対立から出発して、ジェイムズ=フッサール=シュッツ的な〈意識の流れ〉の方に話を持っていった方が面白いのではないかとは思うけれども。
 「実践的理由」。ホメロスの『オデュッセイア』には「後世のフィクションにおける多くの島々の原型」がある。つまり、"theme of the island as magical place ruled by a seemingly benign magician"である。例えば、シェイクスピアの『テンペスト』。プロスペローの島は"a blueprint for the magical exoticism of most later fictional islands that shows, too, an appreciation of the satirical possibilities of comparing an imagined world with the real one"なのである。島では「何でも起こる」。また、"On islands, where normal rules and restrictions don't apply, the transformation of character necessary to all fiction has the perfect environment." Harding氏はデフォーの『ロビンソン・クルーソー』では、島は"moral transformation"が生起する場所であるという。
 また、島というのは、作家にとって「完全なコントロール」を及ぼすには、その閉鎖性とともにその狭さからいっても、ちょうどいいサイズだといえる−−"if one of the main motivations of art is to make order from chaos and so make sense of the world, the opportunity is here in spades." そして、「逃避の場所(places to escape to)」でもある。さらに「封じ込め(containment)」という条件−−"Long before Darwin, writers had worked out a theory of evolution for island societies, that they could develop entirely differently from our own." これはスウィフト、ウェルズの『モロー博士の島』といったSF的島の系譜でもある。「社会的実験室」としての島ということだと、ゴールディングの『蠅の王』。
 Harding氏は、


Perhaps the best modern novel set on a Greek island, though, is Barry Unsworth's Pascali's Island, where the eponymous hero has spent years writing intelligence reports to the Sultan in Istanbul that he suspects are no longer read. For much of the time, he cherishes the idea of escape, but when the chance comes rejects it even though doing so means certain death. For Pascali has realised that what he seeks to escape is not the island, but himself.
と書いているのだが、私はBarry Unsworthという作家もPascali's Islandという小説も知らなかった*3

 ところで、日本語の「島」ですけど、以前からどうして(例えば信州のような)内陸部にも「島」のつく地名があるのだろうか常々不思議に思っていた。考えてみると、「島」というのは或る囲われた領域を表すとすればわかりやすい。〈俺のシマを荒らすんじゃねぇ〉というヤクザ的な用法は「島」の原義に適ったものといえるのだろうか。


 8月22日、中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)を読了する。
 著者の伯父にあたる歴史学者網野善彦を巡る回想録。本書で描かれている著者と「網野さん」との交流はどれも興味深いものばかりなのだけれど、それよりも本書を読んで、中沢新一という人間というか、彼の多様なエクリチュールを本源的に支配している動機のようなものが何となくわかったような気がした。沖縄のアオマタ・アカマタに始まって、チベット密教南方熊楠レーニン等々といった中沢氏の一見するとバラバラな多様な関心を貫くもの。それが網野善彦という人物の存在に関連しているということは、『悪党的思考』(平凡社ライブラリー*4を読んだときに薄々気づいていた。この本が中沢氏の著作の中で、最も〈網野的〉であることは、著者もまた「網野さん」も認めている。同時に、『悪党的思考』を読んだ人は、その本の基調がドゥルージアン且つハイデッガリアンであることに強い印象を持つ筈である。この網野−ドゥルーズハイデッガーという組み合わせに何か不思議なものを感じてはいたのだが、その不思議さを問いつめることはしなかった。本書を読んだからといって、「薄々」が急にクリアになるわけはないのだが、大まかな見当くらいはついたのではないかと思う。著者はそれを指すのに、「トランセンデンタルTranscendental」という言葉を使っている−−「人間の心の中に、現実の世界での五感からの影響や経験の及ぼす働きから完全に自由な領域が開かれており、この自由な領域こそが、人間の本質をつくっているのだという思考法のもとになっているのが、この言葉である」(p.33)*5。曰く、


 この言葉が指示する世界に心惹かれた人たちは、宗教や哲学に深い関心を寄せるようになる。心の奥のその領域でおこっていることに、魅了されつくしてしまうと、そこからは「宗教の人」が生まれる。しかし、人間的自由の根拠地であるトランセンデンタルの領域に考えられることと、経験まみれの現実世界でおきていることとを結び合わせて、現実世界のほうをなんとか「理想」のほうに合わせてつくりかえていこうという思考が発生するとき、極左と極右をひとつに抱き込む、ラジカルな政治思想の持ち主たちが出現することになる(pp.33-34)。

網野さんの歴史の「学」では、それが飛礫を飛ばす悪党や、無頼の人生を送る博打打ちや、性愛の神秘を言祝ぐ路傍の神様だとか、大地とともに生きる民衆の中に、そのトランセンデンタルは宿るのである。それは言ってみれば「日本国」を抜け出ているアジール(避難地)だ。アジールは権力が手を触れることのできない空間である。つまりそれは権力の思考を離脱している。そういう空間に立つと、人は「日本国」というものさえ抜け出ていくことになる。そしてこの離脱によって、その人は逆に列島に展開された歴史のすべてを見とおす力を獲得することになる(p.63)。

あらゆる真実の宗教は、トランセンデンタルに触れる経験から生み出されてくるが、網野史学の根底にすえられることになるこの[「アジア的生産様式の向こう側に広がる「人類の原始」にまで根を下ろしたものとして、国家の意識と結合した歴史記述そのものの外に向かって、自分の「底」を抜いてしまった概念」としての]「民衆」という概念は、それ自体が上からの超越とは正反対の、大地性への内在によって超越を果たしていく親鸞のような宗教思考を、自分にふさわしい思想として、迎え入れることができる。この意味で、網野さんが創造した「民衆」の概念は、ドゥルーズ=ガタリによって創造され、今日ではネグリによって新しい展開が試みられている「マルチチュード」の概念にきわめて近いところにいるわけだ(pp.64-65)。

 堂々たる自信をもって生きる非人。アイヌであり、イヌイットであり、真実の人間そのものである非人。これが網野さんの理想の世界をあらわす、ひとつの鮮烈なイメージであった。網野さんは「非人」という概念そのものの近世的理解を、根底からくつがえそうとしていた。その言葉に、豊かで肯定的な意味を、真新しく付与しようとしたのだ。非人=非人間は、自然との直接的な交歓のうちに生きる。エロチックな身体と直接性の精神をもって、職人として世界を自らの能力によって創造することのできる者たちだ。生の原理だけでできた、あらゆるものごとが媒介されている世界に生きている者たちを、近代人のやり方で「人間」と呼ぶことにすれば、そこから排除された非人間たちは死のリアルに触れながら、生と死が不断に転換し合う、ダイナミックに揺れ動く世界を生きていたのだ(pp.172-173)。

 世界に堂々たる非人を取り戻すことによって、網野さんは人間を狭く歪んだ「人間」から解放するための歴史学を実現しようとしたのである。「百姓」を「農民」から解放する。人民を「常民」から解放する。この列島に生きてきた人間を「日本人」から解放する。そして列島人民の形成してきた豊かなCountry's Being を、権力としての「天皇制」から解放する。こうして、網野善彦がつくりあげようとしてきた歴史学は、文字通り「野生の異例者」としての猛々しさと優雅さをあわせもった、類例のない学問として生み出されたのである(p.173)。
 多分、ここで重要な存在として浮かび上がってくるのが、著者の祖父である、クリスチャンであり国粋主義者でもあった、海洋生物学者中沢毅一ではないかと思う。上の引用文の中の"Country's Being"は毅一による英文の〈日本国体論〉の中で「国体」の訳語として使われているものである。
 ところで、著者の父親である厚氏は、1968年の〈佐世保闘争〉をTVで視ながら、また網野善彦と会話しながら、

学生たちの投石を見ていて、ぼくはなぜわれわれが反権力の闘争を続けなければならないのかという理由が、わかったような気がしたんだよ。あそこで機動隊に向かって石を投げていたのは、ただの政治かぶれの学生なんかじゃなくて、もっと大きな意思に動かされているものではないのか。その意思というのは、マルクス主義とかレーニン主義とか毛沢東主義とかいう近代の政治思想にとどまるものじゃなくて、もっと根源的な、人類の原始から立ち上がってくるなにかじゃないかと思った。われわれの反権力の闘争の根源は、そういう場所から立ち上がってくるものなんだから、党なんてたいした問題じゃない。そう思うと、自分が政治活動で挫折したことなんか、たいして重要なことじゃないんじゃないかって、思えるようになったのだよ(pp.50-51)
というようなことを言ったという*6。今年は北京や上海で日本領事館に「石」が飛んだが、このような観点から発言した人は、私の知る限りでは、日本にも中国にもいなかった。やはり、これは思考の堕落といってしまっていいだろう。
 金丸信の「葡萄酒工場」の話(p.111ff.)には笑ってしまいました。


 〈郵政民営化〉問題について、「モジモジ」さんという方の記事をマークしておく;


「「郵政民営化」という責任放棄」
 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050821/p2

「郵政・維持されるべきサービス水準をまず明らかにせよ」
 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050822/p1

「郵政問題のソフト・ランディングのために」
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050823/p2

 また、選挙に関しては、ミーディアンの徳久さんの〈東京10区レポート〉、今後が楽しみ。


 ザンビアへ行く九谷浩之さんから、南アフリカ共和国ヨハネスブルグに到着したという報せが。「まじ寒い(really cold)」と。それもその筈、南半球は冬。
 
 

*1: http://www.giga-usa.com/gigaweb1/quotes2/qutopwordsx006.htm

*2:この場合のpracticalというのは、書くというpraxisに関係するということで、つまりは物語構成上都合がいいといった方が分かりやすいだろうか。

*3:See http://www.litencyc.com/php/speople.php?rec=true&UID=4501

*4:この本は、特にそのカヴァーによって、「悪党」のイメージを根柢的に変えてしまったといってよい。少なくとも私にとって、「悪党」=cuteというのは定着している。

*5:ここでいう「トランセンデンタル」が、普段私が親しんでいる現象学的な意味での用法とずれていることについては、ここでは不問。

*6:厚氏はその数年前に(多分、ソ連派ということで)日本共産党を除名されていた(p.44)。「自分が政治活動で挫折したこと」云々というのは、それに関係しているのだろう。