名を正さんか

石原慎太郎を巡って2つの引用;


石原がその暴言の標的にしてるのは、まずたいてい少数者だとか外国人だとかよその自治体だとか田舎だとかインテリっぽいもの(おフランス)だとか公的立場にある人や組織のようなものだ。もともと胡散臭く思われているようなものを標的にするんだよな。左派の人が石原支持者を「間違ってる」として叩いたりするのとは根本的に違う。少数者が多数者(もしくは強者)を叩くのと多数者(もしくは強者)が少数者を叩くのでは、支持のされ方がぜんぜん違う。そんなことを都知事選について考えていて思った。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070412/p4
続いて、中野昌宏氏;

アメリカではとても最近,スペイン語を「ゲットーの言葉」と呼んだニュート・ギングリッジ下院議長と,黒人の女子大生バスケットボール選手を「縮れ髪の売春婦」と呼んだ人気ラジオ司会者のドン・アイマスが吊るし上げられた。

なぜ,石原もこうならないのか。日本とアメリカの文化の違いというわけではない。答えは簡単。

ヒスパニック系や黒人は,人数的には相当数にのぼる。要はこいつらは「多数者」を敵に回したから吊るし上げられているのである。

かたや石原が攻撃するのは,精神障害者とか,外国人とか,老婦人とか,フランス語教師とかである。つまり,圧倒的な少数者だ。そういうのを傷つけても,敵に回しても,選挙のときの票にも響かないし,自分は痛痒を感じない。そういう人たちが傷つけられているのをはたで見ている他の人々も,基本的には見て見ぬふりだ。まあ他の人々からすると,確かに感情移入しにくい対象が選ばれていると言える。そこが石原の小ずるいところだ。中には石原と同じような差別意識をもった輩もいくらかいて,そいつらは手を打って喜ぶし。
http://nakano.main.jp/blog/archives/2007/04/13-224322.php

まあそういうことなんだろうなと納得する。ただ、「手を打って喜ぶ」人だって、中野氏がいうように、「他の連中だって本当は「明日は我が身」なのにね」ということはある。それなのに、何故「手を打って喜ぶ」のか。それを虚偽意識とか反動的イデオロギーの洗脳というのは簡単だ。実際、安原宏美さんは「貧乏による「貧乏人根性」」に言及している*1。さらに、マジョリティであること、マジョリティとしてのアイデンティティを維持していくことの困難というものがあるんじゃないかと思う。言ってしまえば、マジョリティとしてのアイデンティティは自らをマイノリティから常に差異化しつづけることによってしか可能ではない。そもそもレヴィ=ストロースに言わせれば、近代社会というのは危機が常態化している社会、魯迅先生がいう意味での「乱世」ではなかったか。
kmizusawaさんに突っ込むわけではないのだが、「強者」とか「弱者」という言葉遣いには慎重になるべきだと思っている。或いは、正名(孟子)をしなければいけないのでは? といっても、儒家的な本質主義にコミットしようとは思わないが。「強者」や「弱者」というのはニーチェ的な用法に限定すべきなのでは? そうすれば、例えば誰が「弱者」なのかということを巡って、ラディカルな逆転が生じる筈だ。