承前*1
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講壇美学の基本というか、形式と内容の関係について、形式と内容が均衡しているのが古典主義、形式の過剰がマニエリスム、内容の過剰が浪漫主義とはよく言われますが、それとは違うわけですよね。さて、短歌が形式において「散文化している」とすれば、改めて〈短歌性〉(what tanka is)、短歌と詩一般や文一般を区別するのは何かが問題になりますよね。俳句の場合は、所謂自由律の登場によって既にそういう問題に直面しているのか。
tukasama 2009/11/30 10:07字余りは、あくまで、定型意識の内部にあっての結果です。現今の短歌が長くなる問題は、韻律詩が散文化しているからだと思います。
近代短歌が、漢字を多用するようになったのは、印刷の効果を考慮した点も、見逃せません。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091129/1259460953#c1259543241
定型詩については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090706/1246906032 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090707/1246985332も。
そういえば、釈迢空(折口信夫)は短歌の分かち書きを行ったが、それはあまり普及していないようだ。あの『朝日』の記事で冒頭に引かれている「長い短歌」も一行書きだし。穂村弘の歌を面白がるのはもしかして、『8時だョ!全員集合』を視たことがある世代まで?