Wonder or sympathy?

http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50413323.html


ここで渡邊十絲子という方の「驚異と共感のはざま」という文章の存在を知る。そこで、渡邊さんが穂村弘の言葉を借りていっている「驚異(ワンダー)」としての言葉と「共感(シンパシー)」としての言葉というのは、より一般的に使われている言葉としては、異化と同化ということに翻訳できるだろうか。渡邊さんや穂村さんによれば、異化する言葉は「詩」の言葉で、同化を誘う言葉は散文(小説その他)ということになるのか。ただ、従来は全く反対に理解されていたことに気付く。つまり、「詩」の言葉(韻文)は意味以前的にそのリズムや響きによって読み手を安易に陶酔させ、それに対してザッハリッヒな散文が対置されていた。アドルノが言ったというアウシュヴィッツ以降云々という発言もこの意味での「詩」を前提にしているのか。また、こうした意味での「詩」への警戒は、例えばミラン・クンデラに顕著であるということはいうまでもない。しかし、「詩」に対する一般的な視点というのは、露西亜フォルマリズム、或いはローマン・ヤコブソンの構造言語学によって(革命的に)変わってしまったと考える。日常的には、言葉(シニフィアン)は(それ自体社会的に構成された)意味(シニフィエ)を伝える手段にすぎず、それ自体として目立つことはない(というか、目立つことを抑制されている)。しかしながら、詩的言語という様態において、言語は意味を伝達する透明な手段を脱して、それ自体がトピック化される*1。渡邊さんや穂村さんの論はこのようなヤコブソン以降的な地平を前提にしているのだといえるのだろう。
Skeltia_vergberさんは、「驚異(ワンダー)」と「共感(シンパシー)」について、「メディア論的に言えばあるテクストに対してその意味、さらにはデノテーションに対するコノテーションが前者は多様であり、開かれている」とコメントしている。ただ、注意しなければいけないのは、「多様」な「コノテーション」というのが決してアプリオリに存在するものではないということだ。これは、自明で自動化されたシニフィアンシニフィエカップリングが宙吊りにされるために、読み手は自らの知識ストック(シュッツ)を総浚いして、新たに意味を備給しなければならないことによる。この意味で、「詩的言語」は読み手にハードな労働を強いる。また、この読み手の労働は当該のテクストに他のテクスト(の記憶)を呼び込むことになる。
ところで話は変わって、ロバート・ワイアットComicopera日本盤のボーナス・トラック”Wonder How Your Breath Can Last”はどうだ。


Coltrane, Coltrane playing so fast,
I wonder how your breath can last.
I don't know what mode you're in,
they all sound Greek to me.
コミックオペラ

コミックオペラ

*1:ヤコブソンの「詩的言語」論に関しては、取敢えず『一般言語学』所収の「言語学詩学」とかを参照のこと。

一般言語学

一般言語学

また、川本茂雄『ことばの色彩』、『ことばとイメージ』なども。
ことばの色彩 (1978年) (岩波新書)

ことばの色彩 (1978年) (岩波新書)

ことばとイメージ 記号学への旅立ち (岩波新書 黄版 331)

ことばとイメージ 記号学への旅立ち (岩波新書 黄版 331)