「御用学者」と「責任倫理」(メモ)

橋本努*1原発に責任、持てますか? トップをめぐる「政治」と「科学」」http://synodos.livedoor.biz/archives/1750944.html


少し前に読んだのだが、これは所謂「御用学者」*2や「技術官僚」に関する知識社会学的な考察といえるだろう。「御用学者」としては、小佐古敏荘*3や班目春樹*4という人名も登場する。
ウルリッヒ・ベック(例えば『危険社会』)のいう「サブ政治」という問題;


最大の問題は、ウルリッヒ・ベックなどのいう「サブ政治」の性質にあるだろう。「サブ政治」とは、メインの政治である「議会制民主主義」を経ないで、もっぱら技術官僚たちの判断によって国策が決められるような意思決定のあり方である。

官僚は、本来であれば、政治のための下僕である。政治家によって立案された政策目標を承って、これを遂行しなければならない。ところが「サブ政治」においては、技術的に高度な知識をもったエリートたちが、非民主的な仕方で政治を行い、重大な政策を導く。たとえば、原子力エネルギーの開発は、それがいったん国策とされれば、民主的な議論を経ずに、技術官僚の手によって進められてしまう。そこにはいわば、国家独占資本主義体制が形成され、民主的な制御が利かなくなってしまう。

しかし、橋本氏はマックス・ウェーバーの『職業としての学問』と『職業としての政治』を援用して、「サブ政治」はうまくいかないだろうという。科学者に要請される「知的誠実さ」という徳目と政治家や官僚に要請される「責任倫理」とは相互に対立するものだが、「サブ政治」に携わるエリートたちはこの2つを同時に引き受けざるを得ない破目になる。たしかにそれはそうなのだが、橋本氏の論に対する疑問としては、「御用学者」といっても、常勤の官僚として行政的実践に関わる狭義の「技術官僚」(技官)と非常勤で「参与」という仕方で政治や行政にコミットする知識人を同じ水準で論ずることができるのかどうかということがある。小佐古敏荘を初めとして、最近「御用学者」として揶揄されている人々は主に後者のような立場として(「国策」としての)原子力に関わってきたといっていいだろう。この場合、問題は「サブ政治」というよりは、科学と政治という異なった2つの社会システム間のコミュニケーションの問題になるのではないか。政治にとって、科学は外部(環境)であり、科学をどう使うのかというのは外部情報の処理の問題であり、政治に問われるのはその情報処理能力であり、また外部情報を参照しつつ政治的判断を下すまさに「責任倫理」だということになる。或いはここにおいて狭義の「技術官僚」が問われるのかも知れない。〈科学語〉を〈政治語〉に翻訳する通訳としての能力や誠実性が。ところで、「御用学者」は「御用学者」であることによって政治に対して順機能的であると思われていたのだが、実は「御用学者」たることは政治にとって逆機能的であった。福島の原発事故とその後の経緯が示しているのはそういうことだろう。「御用」でないこと、批判的であることが、学者或いは知識人がコミットする体制や運動等に対する最大の貢献であるという逆説(See Peter Berger “Sociology and Freedom” in Facing Up to Modernity)。
危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

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職業としての学問 (岩波文庫)

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職業としての政治 (岩波文庫)

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Facing Up To Modernity

Facing Up To Modernity

さて、「サブ政治」の問題も含めて、エリートの支配としてのメリトクラシーについては真剣に考えるべきであろう。特に大多数の非エリートにとっては。勿論〈博識の市民〉*5による参加民主が理想ではあるが、現存する民主制においては、エリート支配とエリートならぬDQNの支配たるポピュリズム*6という2つの極の間を振り子のように行ったり来たりということではないだろうか。だとしたら、エリートの(実務能力だけでなく)倫理的資質を問うこと、或いはエリート選抜における透明性や民主性を問うといったことは不可避の知的課題ということになるだろう。エリートの倫理的或いは政治哲学的意味に関しては、メリトクラシーという側面から儒学(元祖メリトクラシー!)を省察したDanniel A. Bell “From Communism to Confucianism: Changing Discourses on China's Political Future”と”Jiang Qing's Political Confucianism”(何れもChina's New Confucianism*7に所収)をマークしておく。
China's New Confucianism: Politics and Everyday Life in a Changing Society

China's New Confucianism: Politics and Everyday Life in a Changing Society

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100816/1281930523 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110226/1298700874

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110501/1304181011 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110503/1304392248 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110503/1304393396 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110504/1304479855 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110607/1307423592 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110615/1308103103

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110328/1301288749 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110501/1304181011

*4:斑目春樹」と誤記されている。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110424/1303669101 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110526/1306413819

*5:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080209/1202541178 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080210/1202620991 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090808/1249741839 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091120/1258746079 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100303/1267593384 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100517/1274063531 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100703/1278181982 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100816/1281992231 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110104/1294151730

*6:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060430/1146374995 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060513/1147548713 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070918/1190142765 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080703/1215108132 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090706/1246828453 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090929/1254237103 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100526/1274895252 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100703/1278181982 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110228/1298867905 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110404/1301887440 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110615/1308103103

*7:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110214/1297694798