「「同時性」をめぐって」http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20091124/p1
面白い論攷で、ずっとコメントしようしようと思っていた。
先ず、(字義的な意味における)「同時性」は近代になって可能になるとともに、近代になって困難、もっと強く言えば不可能になってしまった。近代になって可能になったというのは時間を正確に測定し、「同時性」を客観的に確定する計時技術が近代の産物だということだ。しかし、同時にこれが「同時性」を不可能にしてしまう。先に近代的な時間概念に言及すべきだろう。近代において〈時〉は点の集積になってしまった。パンクチュアルな今。さらに、この〈点〉は無限に分割可能であるとされている。正確に「同時性」を求めれば求める程、(技術的な面で言えば)正確に「同時性」を確定できるようになればなる程、「同時性」を達成することは難しくなってしまう。例えば、10000分の1秒早いよとか、25000分の1秒遅いよとか。これはあくまでも科学的な時間であり、また陸上競技やスピード・スケートのような時間を競うスポーツがこうした時間概念を前提として存立しているということはあるのだが、生活にとっての/のための時間ではない(生活世界が多少なりとも科学によって殖民地化されているのは常ではあるが)。第一、この時間概念には、点が幾ら集まっても線分は生成されないという理論的難点がある。点からは、線分としての時間、経過としての時間はストレートに導かれない(仏蘭西語で言えば、Ce temp ne pas passe.という?)。時間の形而上学に深入りするのはよして、話を変えよう。私たちの生活にとって、或いは社会にとって重要なのは、「同時性」というよりは寧ろ同期化なのではないか。
曰く、
「挨拶」。「挨拶」はたしかにデリダのいう二重の肯定(Oui, oui)と関わる*1。ただ、「挨拶」はその「挨拶」が無視されたり、相手の反応が鈍かったりすることに開かれている。穂村弘の短歌に曰く、「ドリフだねそれもドリフだオッスもいっちょオッスあたりいちめんドリフとなりぬ」*2。この場合、いかりや長介は自分の「オッス」に観客の「オッス」が続かないという可能性を抱えている。その意味で、「挨拶」は「強迫的=脅迫的」である以前に、投企的であるといえる。どっから来たんだい?という独逸兵への問いに銃弾で答えられてしまったテオ・アンゲロプロス『旅芸人の記録』に出てくる男。
私がさらに連想したのは、アルチュセールによる「呼びかけ(挨拶)」の理論だった。われわれは、他人に「挨拶」することによって、他人と「共通の時間」に同調することを宣言し、社会的な生を開始する。ビデオデッキとかで「ジャストクロック」という機能があるが、社会的な生活においては、挨拶がいわばジャストクロックの機能を果たしている。それは、「イデオロギー的」な行為であり、呼びかけてきた人と「共通の時間」に同調したくない者にとっては、強迫的=脅迫的と感じられるかもしれない行為である(コンビニ店員は絶え間なく繰り返し客に挨拶し、“お勧めの品”を売りつけようと同調圧力をかけなければならない)。
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マクロな同時性に関して、イスラーム世界では五行の1つとして定められている礼拝、1日に5回メッカの方向を向いて礼拝することで、オーディオ=ヴィジュアルな仕方で確保されていると言えるかも知れない。数か月前、歩道で中年男がうつ伏せになっていたので一瞬吃驚したが、乾し葡萄を売っているウィグル族のおじさんが夕方の礼拝をしていたのであった。
イスラームの世界では、いわば「神の意志」が「同時性」の定義を与えているといえるのかもしれない。そういう「光」が存在しないわれわれの社会では、個々人が「時間を守る」努力をすることによって、他人と同時的に生きる社会を形成し維持していかなくてはならない。「個々バラバラに違う場所で動いている人たち」がいるだけでは、それは「社会」ではない。他人と同時的な存在として生きようとすること、それは「同時性」とはどういうことかを定義しようとする倫理的・政治的な行為でもあると思う。
*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091213/1260736965 また、そこで参照されているJohn D. Caputo (ed.) Deconstruction in a Nutshell: A Conversation with Jacques Derrida、J. Hillis Miller ”George Eliot: The Roar on the Other Side of Silence”、 高橋哲哉『デリダ』を参照のこと。
*2:Cited in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091129/1259460953
*3:シュッツの”Making Music Together”におけるmutual tuning-inの議論を参照。 Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)