「驚異と共感のはざま」

承前*1

兼業詩人ワタナベの腹黒志願

兼業詩人ワタナベの腹黒志願

Skeltia_vergberさんにご紹介いただいた渡邊十絲子さんの「驚異と共感のはざま」、本文を読むことができたので、コメントめいたことを書き込みたい。
渡邊さんがいう小説が「感情のサプリメント」、「文学のファストフード」(p.328)となっているという状況は、多分「動物化」(東浩紀)と呼ばれる状況に対応しているのだろう。「シンパシー度の非常に高い小説は、つまり広範囲の読者に「とってもよくわかる」感じを抱かせる小説であるといえる」(ibid.)。渡邊さんは「最大公約数的な感情」(ibid.)という言葉を使っているけど、つまりは(統計的な)多数者が〈萌える〉と想定された〈萌え要素〉が巧みに配置されている小説が売れるということですよね。
また、


不特定の他人に自分の書く言葉がきっちり「通じている」と信じている(相手が思うその言葉の意味と、自分が思うのとが同じだと疑わない)人は、詩人ではない。社会的に、みんなが流通させていて、意味を改めて考えるなどということをしない言葉ばかりで「作品」を書く行為は、他人のシンパシーをあてにした行為だけれども、そのシンパシーには裏打ちはないのである。あなたの思う「友情」とわたしの思う「友情」は、まったく正反対の行動として現れることだってあるだろう。つまり、互いに思う「友情」の意味が違うのである。このあたりの事情を無視してしまうのは、「詩人」としては失格である。「友情」といえば「友情」という「同じ一つの意味」が通じるんだと思っている人は、ワンダーを捨てた人である。(pp.326-327)
という箇所も、読んでいて、うんうんと肯いてしまった。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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さて、疑問は渡邊さんというよりは、「驚異(ワンダー)」と「共感(シンパシー)」という言葉の出所である穂村弘氏に絡む。例えば、この2つは年齢(加齢)と関係付けられている(p.324)。若い人間が「ワンダー」を志向するのは経験や知識の欠如による。よく使われる表現で言えば、〈青いぜ〉ということである。でも果たしてそうなのだろうか。ボブ・ディランが歌っていたように、10年前よりも自分は若いということもありうるということもあるというのはともかくとして、知と無知というのは反比例するものではない。逆に、知が増えればそれに比例して無知も増える。これは図形で示せば一目瞭然だとは思うが、ここでは知には〈私は知らない〉という知も含まれ、このような知を伴わない無知は無知でさえありえないということを指摘するにとどめる。だから、経験や知識が多い方が世界は「ワンダー」に満ちているということもいえるのである。また、詩人から小説家に転じた人ということで、思い浮かぶのは、金井美恵子富岡多恵子といった人だが、彼女たちが小説に転じたことによって、「ワンダー」が減少したかどうか、これは経験的に問われるべき問題だろう。
ところで、「ワンダー」に注目していた業界として広告業界が挙げられるだろう。これには言語学的(記号論的)必然性もあり、つまり読者の注目時間を1秒でも長くするためには「ワンダー」に満ちた言葉(記号)の使用が要請されるからである。だからこそ、1970年代から80年代にかけて、コピー・ライター、糸井重里氏などがスターとなり、広告こそが「ワンダー」な言葉を担っていたとも言える*2

これを読んでいて、ジャン=リュック・ゴダールの話を思い出した。出典は忘れたが、ゴダール先生曰く、資本家が映画の製作資金を出すというのは自分に投げつけられる火炎瓶(モロトフ・カクテル)の資金を提供するようなものであり、だからこそ資本家は映画をシロップに変えようとする。何しろ、映画にはそもそも砂糖がいっぱい含まれているのだから。

また、付け足し。渡邊さんは金子みすゞに言及している(p.322)。私が金子みすゞを読んで感じたのは、「世界に一つだけの花」の原型だということではなく、その二項対立の設定の巧みさとかだった。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080105/1199511204

*2:これは批判的には、「ワンダー」の搾取であるともいえないことはない。