池大納言など

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120114/1326550632に対して、


matsuiism*1 2012/01/15 00:21
本郷氏の『謎とき平清盛』によると、元祖「権門体制論」は藤原信西だったみたいですね。信西保元の乱で企てたのは、「王(=天皇上皇)のもとに貴族と武士・僧侶・神官が結集する」政治体制だったと(p176)。
慈円源頼朝と手を結んだ摂政・九条兼実の弟だから、そういう権門体制と鎌倉幕府との橋渡しみたいなことを考えたのかなと、このエントリを読んで思いました。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120114/1326550632#c1326554504
所謂「保元新制」って奴でしょうか*2。ここでの脈絡とは全然関係ないのですが、藤原信西というと、息子の澄憲と孫(澄憲の息子)の聖覚が興味深いですね*3。澄憲は「安居院流唱導」の祖で、藝能としての説教の祖であり(See eg. 関山和夫『説教の歴史』)、落語なども起源を辿っていけば藤原信西に辿り着くわけだ。聖覚は法然に帰依し、親鸞法然に引き合わせたり*4熊谷直実法然を紹介したりもしている。慈円九条兼実の兄弟で言えば、兼実は法然の有力な信者だったわけですが、慈円天台座主、つまり法然の専修念仏を批判・弾圧すべき立場にあったわけですが、法然を批判する一方で法然と(親鸞を含む)その弟子たちを庇護するといった或る種曖昧な態度を取っていますよね。
説教の歴史―仏教と話芸 (1978年) (岩波新書)

説教の歴史―仏教と話芸 (1978年) (岩波新書)

さて、matsuiismさんが源頼朝のことを採り上げている*5。頼朝といえば、平治の乱で殺されるところを、平忠盛の妻で平清盛の継母に当たる池禅尼の嘆願によって助命されたということになっている。前回も引用した岡野友彦『源氏と日本国王』には、杉橋隆夫、村田正言、石井進の研究を参照しながらの、池禅尼の実子(清盛の異母弟)である池大納言平頼盛についての興味深い話が出ている(pp.117-120)。杉橋隆夫によれば、(北条時政の妻である)牧の方は池禅尼の弟の息子であり、頼盛と牧の方は従兄妹同士である(pp.118-119)。伊豆に流された頼朝少年を監視していて、後に頼朝の義父になった北条時政平頼盛の従妹の旦那である。また、平頼盛は鹿ヶ谷の変や以仁王の挙兵にも関与していたという。彼は俊寛僧都の妹を妻としていた。さらに、池大納言領のうちの「駿河国大岡牧は、石橋山の合戦に際して、頼朝方の緊急避難所として利用されていた」(p.119)。こうして見てくると、頼盛って(最近の流行り言葉を使えば〈平家に潜入した源氏工作員〉ということにもなる。そして、岡野氏曰く、

これらの状況証拠を考え合わせるならば、平頼盛が、平家一門の中に身を置きながら、反平家方の諸勢力と常にコンタクトをとり続けていたことはほぼ確実であり、清盛の側から見れば、異母弟の頼盛はまさに、「獅子身中の虫」と言えようが、逆に頼朝の側から見ると、政権内部からの離反者である頼盛は、清盛一門追討の「功労者」ということになる。(略)
その意味において、鎌倉時代の池大納言家とは、「公家」に姿を変えて生き残った「平家の残党」であると同時に、鎌倉幕府の「隠れ御家人」であったと見なすことができる。そして池大納言領とは、そんな「隠れ御家人」である池家に対し、鎌倉幕府が「本領安堵」したところの、広義の「関東御領」だったのである。(pp.119-120)
不図思ったのだが、〈源平合戦〉を源平の争いというよりは平家内部の争い、清盛ら伊勢平氏と北条家などの関東の平家の争いとして見ることはできないのかどうか。
源氏と日本国王 (講談社現代新書)

源氏と日本国王 (講談社現代新書)

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