- 作者: 本郷和人
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/10
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中世の初めの時点での日本と朝鮮半島を比較すると、興味深い史実に気付く。平家政権と高麗の武人政権の類似である。高麗王朝は唐や宋王朝を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の二つの班からなる官僚制度を採用した。これが現代の朝鮮半島でもしばしば言及される両班である。
朝鮮半島では古くから、文が上で武が下、文臣が上位で武臣が下位という秩序が構築されていた。私領を経営して私兵を養い、実力を蓄積しながら文臣に抑圧されていた武臣たちは一一七〇年にクーデターを起こして多くの文臣を殺害、武臣の鄭仲天が国王を廃位して武臣政権を打ち立てた。鄭仲天、李義旼は政権の座において暗殺されるが、その後一一九四年に崔忠献が実権を掌握すると、四代続く安定政権となった。崔氏の政権を維持するための私兵組織が左別抄、右別抄(別抄は精鋭部隊、の意)で、のちに神義軍を加えて三別抄となった。三別抄は事実上の国軍となり、最後まで蒙古と戦った勢力として名を残すことになる。
朝鮮半島では私領と私兵を有する武臣が文臣を迫害し、国王を傀儡として政権を掌握する。日本では荘園を集積し、在地領主を従者とした平家が、門閥貴族を排斥して天皇を操り日本初の軍事政権を樹立する。しかも政変は一一七〇年代に起きている。この奇妙な符合が、私には不思議でならなかった。同地域にある両国が同様の政治状況を現出する。これは偶然の一語では片づけられまい。両者には正式な国交はなかった。表面的には、連絡と交渉はなかったはずであった。
けれど、ここでも当為より実情を重視し、さらに海の民の活動を想定することで、一定の方向性は見えてくる。朝鮮の文班と日本の門閥貴族との間にこそ直接の対話はなかったものの、朝鮮と日本は海の領主・民衆レベルで緊密に連動していたのではないか。情報が双方の社会に浸透し、お互いに影響し合うことによって、両者はやがて欲求を共有するにいたる。それが歴史を動かす要因の一つになったのかもしれない。(pp.140-142)
堀田純司「大河ドラマ「平清盛」における「王家」をめぐって」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120114-00000008-zdn_n-inet
「編集部」の前書きに曰く、「今年のNHK大河ドラマ「平清盛」では、法皇・上皇らによる院政体制を「王家」と呼んでおり、ネットでは「『皇室』『天皇家』ではないのか」といった議論が起きている」。また熱湯浴が蠢いているの? 「院政体制」=「王家」なの? そんなことはないだろう。本文で堀田氏は「皇室」=「王家」としている。「王家」という用語については、例えば岡野友彦『源氏と日本国王』のpp.81-90辺りを参照されたい。堀田氏も指摘しているとおり、「王家」という用語が広く用いられるようになったのは黒田俊雄の「権門体制論」以降だが、重要なのは「王家」という言葉が中世において頻繁に使用されていたということ、つまりテクニカル・タームである以前にフォーク・タームであったということだろう。この意味では、「皇室」とか「天皇家」というのは、中世においては誰もそんな言葉を使っていなかったので、問題外だといえる。「王家」だが、それが意味する範囲は現代語の「皇室」よりも広く、天皇や皇族以外にも、広義では天皇の子孫たる源氏や平氏も含んでいた。岡野氏は「王家」という用語には反対で「王氏」という用語を提唱しているが、これは姓と苗字、氏族とイエの区別に関わっている*2。堀田氏による「権門体制論」の整理、そのネタ元である本郷氏のもそうなのかも知れないけれど、ちょっと単純化しすぎる処があるかも知れない。堀田氏曰く、「この権門体制論とは現代でも有力な中世史観であり、簡単にいうと王家(天皇家)を国家の中核にすえ、寺家や武家などの諸権門が相互補完的に存在し、国家権力を形成していたという中世日本の国家観です」。しかしながら、「王家(天皇家)」も複数の「自立的な権門」のアジャンスマンにすぎなかったわけだ。黒田氏曰く、「中世の「王家」とは、旧『皇室典範』の「皇室」のように天皇を家長としてその監督のもとにある一箇の家を意味するのではなく、いくつもの自立的な権門(院・宮)を包含する一つの家系の総称であったと、私は考えている」(『源氏と日本国王』p.85から孫引き)。
- 作者: 岡野友彦
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堀田氏は「権門体制論」に従えば、源平合戦は「権門体制の枠組みの中で軍事指揮権の長の座をめぐって戦われたコップの中の戦争(でしかない) 」ということになるという。こうした見方の元祖は慈円和尚(『愚管抄』)だよね。周知のように、壇ノ浦の合戦で安徳帝とともに三種の神器の草薙の剣が海中に失われたが、それについて、慈円和尚は失われた剣は鎌倉幕府の創設によって補われたと述べている。このようにして社会変動と折り合いをつけ、それを正当化したわけだが、慈円和尚って元祖「権門体制論」?
- 作者: 慈円,丸山二郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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