Return of Desiderius Erasmus Roterodamus?

濱和弘「現代に甦るエラスムスの神学思想」『本のひろば』(キリスト教文書センター)771、pp.16-17、2022


金子晴勇*1キリスト教思想史の書時代IV エラスムスと教養世界』の書評。


ともすれば、エラスムス*2の神学思想は、神中心ではなく人間中心であり、道徳主義的に見られる傾向がある。しかし、それは正当な評価とは言い難い。本書はそれを明らかにしていくのであるが、その際、著者は、まずペトラルカ、ヴァッラ、ピコ・デラ・ミランドラといったキリスト教人文主義ヒューマニズム)から叙述を始める。
キリスト教人文主義には、「人間の尊厳」への高揚が見られるが、そこには人間の本性は神の像にあり、それゆえ人間の本性は絶えず神に向かうという信念がある。その信念に立ち、エラスムスは古典文化とキリスト教の総合、世俗の学問と敬虔な信仰との総合を目指す。それを、「キリスト中心」に立ち、また「聖書のみ」の聖書主義に徹しながら、優れてキリスト教信仰の上に結実させたものが、本書の著者が描き出すエラスムスの神学思想である。(p.16)

エラスムスは先に指摘した文化総合を当時の人々の意表を突く表現「キリストの哲学」でもって明らかにする。本書では、この「キリストの哲学」が形成されていく過程を、時系列的に並べられた彼の著作を解読しつつ説明していく。それは初期の代表作『エンキリディオン』のなかでほぼ完成してはいるが、人間学的視点をオリゲネスから継承しながら発展させ、『新約聖書序文』によって初めて小作品なのに完璧な叙述に到達する。その内容はルターの『キリスト者の自由』と比べても豊かな内容となっている。そのなかの「方法」がさらに展開したのが彼の神学的代表作『真の神学の方法』(略)そこにはキリストの生き方を聖書を通して学ぶことなしにはあり得ない。したがってエラスムスの神学は「聖書のみ」であり、古典はその聖書理解のための予備的なものに過ぎない。その清祥の解釈は歴史的・修辞学的理解に立ちつつもそれを越える霊的で「物語神学的な聖書解釈の方法」が見事に展開する。(pp.16-17)

また、このような神学思想が背後にあってこそ、『痴愚神礼賛』や『対話集』のような、当時の教会に対する批判が隠された作品が生み出されていったと言える。さらに「エラスムスの女性観」はこれまで誰も問題にしなかった論文であって、興味深い。また彼の聖書解釈学についての叙述もルターとの比較で注目に値するし、最後の「近代主体性の問題」も自律と神律の観点から説き明かされており、新鮮さが感じられる。(p.17)
学生の頃、この金子先生の『宗教改革の精神』を読んだことがあるけれど、これはエラスムスを下げてルターを上げる、の本。若い頃読んだエラスムスを巡る本を挙げると、やはり高橋康也『道化の文学』とジャック・ルゴフ『中世の知識人――アベラールからエラスムスへ』*3ということになるかな。