「呪い」と「聖書」  

菊地章太『儒教・仏教・道教*1から。


旧約聖書』とは罪と罰の記録である、とはよく言われることだが、じつは全編これ呪いに満ちあふれた書物でもある。
旧約の神にとって、祝福という行為はもちろん大きな意味を持っている。けれどもそれと同じくらい、呪いが絶大な力をもって人間に臨む。新約の神であれば汝の敵を愛せよというところだが、旧約の神はまずなによりも「呪う神」である。そこには神の裁きへの期待がひそんでいる。しいたげられた人々は神が沈黙をやぶるときを待ちつづけている。
詩篇」はうたう。「私は虫けらだ。人ではない」……人々は彼をいやしめ、あなどり、あざけり、ののしった。そのあげく、「私の骨はことごとくはずれ、私の心は蠟のように胸のうちで溶けた。私の力は陶器の破片のようにかわきはて、私の舌は顎についた」とある。
舌が顎につくなどというのは、そういう境涯につきおとされなければ実感できそうにない。自分を虫けらとまで言わせてしまう。ここまで自分をおとしめてきた者がいる。そんな絶望のきわみにあってさえ、神をよりたのむ思いはなくならないのか。
神はいつか立ちあがる。しいたげた者どもを打つために。
(略)『旧約聖書』が呪いにあふれているということは、けっしてその価値を低めはしない。(略)そこにこそ旧約のはかりがたい重さがありはしないか。(pp.90-91)
これに続いて語られるのは『老子』(p.91ff)。