速いから「優秀」なのかということから逸れて

「優秀でなければ仕事が無い時代の幕開け」http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20101207/1291719025


曰く、


さてバンコクなんぞに住んでるといろいろ出会いもあるわけで、意外なところで意外な人と知り合ったりする。今年はそういうおもしろい出会いがたくさんあって、中でもとある企業でマネージメントをやってる人の話がおもしろかった。

たくさん話を聞いたのだが、印象に残った話の一つに「組織は一番遅い人の速度で動く」というのがある。これ自体はよく言われることなので俺も知ってはいたのだが、その人の話を聞くと本当の意味で理解してなかったなあとつくづく思わされた。

一番遅い人の速度で動かなくてはいけないなら、速度をあげるためには遅い人を切らなくてはならないのである。

効率化、効率化と叫ばれて久しいが、そのことについて自覚的な人はどれくらいいるだろうか。俺自身がこのことについて自覚してなかった事に気付かされたわけなのだが。

〈速い〉=「優秀」だというなら、いちばん〈速い〉奴の首も切った方がいいよと提案しておく。情報処理の〈速さ〉ということなら、誰もがインテルのCPUには敵わないのだから。
さて、山口昌男『学問の春』*1からの抜書き;

大学という場所について考えてみると、これからの大学は要するにやる気のある学生と先生とが出会う場所になるべきであって、制度的にただそこにいて試験で点をとって就職するというような形骸化された通過儀礼の場としては、もはや存在しなくてもいい。その程度の関心で必要な情報は、教室で教えなくてもインターネットである程度は引き出せるようになった。ですから、そういう意味での制度としての大学は、あるところ機能解消しつつあるともいえる。
それから、小学校一年生から、二年、三年と進級して大学までずっと進んでいく学校で教える知識の体系というものがあります。学年の各段階は学力に相応していると考えられている。では、学力の観念というのはどういうものだろうか。私たちは人間の能力を中心に考えて、体力とか学力という言葉を使ってきましたが、人間の知の能力、その中身は考える力、計算する力、記憶する力というふうにいろいろな要素が入り交じっているわけです。しかし、その中の記憶する力とか計算する力などはもう機械にやられている。人間の能力はいわゆる学力といわれているものでは、つまり年齢によって振り分けてきたタテ割りの知識の体系では、もはや捉えきれないわけです。(pp.34-35)
そういえば、昔田中角栄は〈コンピュータ付きブルドーザー〉と呼ばれていた。ここに当時の日本人の能力観が表れていない? 上で山口先生が言っていることはまあ普通のことなのだが、次に引用する部分の方がまさに〈山口節〉という感じか;

(前略)ヨーロッパ中世にフランソワ・ヴィヨンFrancois Villon(1431-63?)という詩人がいました。この詩人は詩の先生と共にヨーロッパの大学を渡り歩いて、無頼の限りをつくしながらバラッドの詩編を残した。「放浪教授・学生団」、フランスの中世にはそういう知のスタイルが存在していた。彼らは知識人というよりは、反社会的な狂人や道化に近く、警察権の外部にいたのです。放浪しながら、食べていくために時によっては強盗やカッパライも働いた。先生がたとえばリヨンの大学に草鞋を脱ぐ、そうしたら学生もそこにいっしょに草鞋を脱ぐ。先生がどこか別の土地へ移動したらまたいっしょに移動する、そういうユニット、放浪する学びの徒党というものを作ったんですね。このことに関しては日本語に翻訳は出てないけれどヘレン・ウォデルのThe Wandering Scholars(『放浪する学者たち』)という本があります。
ヨーロッパでいわゆる「知識人」というのは、アイルランドに始まったといわれている。アイルランドカトリックの修道士たちが、ヨーロッパ全体に学問を説いて歩く。それがだいたい大学の基礎になっていった。各地の僧院にその人たちが定着して教え始め、そこに学生が集まってくる。ヨーロッパの大学というのはオックスフォード大学もフランスの数ある古い大学も、そういうところに始まっている。
ですから、大学が固定した時間割・カリキュラムを全部決めてそこに先生も学生も閉じこめるというのは近代のごく新しい大学のあり方です。近代的な大学の形式の良さも生かしながら、ときどき魂があくがれでる(「憧れる」の古語に「あくがる」という言葉があるね、心が強く惹きつけられて、じっとしていられない気持ち)のにまかせて、そのように放浪に出るということ、また外の世界とさまざまにつながるユニットの集まりとしての大学ということをみなさんも考えてみるといいでしょう。大学の姿をそんな学びのネットワークとして考えるとき、もぐりのニセ学生の存在はとても重要です。ニセ学生は影の大学を作っているわけですが、決して大学にとって無駄とはいえない挑発性や可能性を外から持ちこんでくるわけですから。(後略)(pp.36-38)
古代中国の〈諸子百家〉も Wandering Scholarsか(See 大室幹雄『滑稽』*2。また、ヨーロッパ中世の「知識人」については、取り敢えずジャック・ルゴフ『中世の知識人』をマークしておく。
新書479学問の春 (平凡社新書)

新書479学問の春 (平凡社新書)

中世の知識人―アベラールからエラスムスへ (1977年) (岩波新書)

中世の知識人―アベラールからエラスムスへ (1977年) (岩波新書)

「優秀でなければ仕事が無い時代の幕開け」というエントリーに戻ってみる。実は、この所謂〈情報化社会〉において「仕事」があるかどうかというのは「優秀」かどうかというよりもその仕事がrule-basedかどうかに係っている。哲学者兼バイク・メカニックのMatthew B. Crawfordは、Shop Class as Soulcraft*3の中で、経済学者Frank Levyの論(”Education and Inequality in the Creative Age”*4を引いている(pp.34-35)。要するに、ブルーカラー労働かホワイトカラー労働かを問わず、プログラム化可能な仕事、マニュアルに還元可能な仕事というのは一方ではオフショアの安い労働力に、他方ではコンピュータ・ソフトウェアに奪われる危険がある。この議論を勝手に敷衍すれば、以前は訓練を積んだ「優秀」な専門家或いは熟練した労働者でなければできなかった仕事がコンピュータ・ソフトウェア(例えば会計ソフト)の発達によって、「優秀」ではない者でも扱えるようになって、つまり仕事の敷居が低くなったことによって、一方ではそれらの仕事の価格が下落したこと、他方では敷居の低下とともにそれらの仕事への希望者が増えたことが問題だともいえる。「優秀でなければ仕事が無い」ことよりも「優秀」でなくても仕事ができるようになったことの方が問題なのだ。或いは、従来の「優秀」の定義が通用しなくなったか(これについては、橋本努『自由に生きるとはどういうことか』第6章の議論も参照のこと)。Crawford氏は「創造性(creativity)」に関するFrank Levyの定義;

(…) viewed from this rule-based perspective. creativity [sic] is knowing what to do when the rules run out or there are no rules in the first place. It is what good auto mechanic does after his computerized test equipment says the car's transmission is fine but the transmission continues to shift at the wrong engine speed.(Cited in p.35)
を引いているけれど、「優秀」=〈速さ〉ということでは取り敢えずはないだろう。
Shop Class as Soulcraft: An Inquiry into the Value of Work

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