例としてのカトリック


キリスト教は本質からして、寛容で、自由を尊重し、民主的な傾向を持つものなのでしょうか? こう問われれば、「否」と答えざるをえないでしょう。歴史書を繙いてみればすぐにわかりますが、これまで二十世紀にわたって、宗教の名のもとに、数えきれないほどの拷問や迫害や殺戮が行われ、教会の最高権威から圧倒的多数の信者に至るまで、奴隷貿易や女性の隷従や異端審問のような最悪の独裁を容認してきたからです。ということは、キリスト教は本質からして、専制的で、人種差別的で、退行的で、不寛容なのでしょうか? そんなことはまったくありません。少しまわりを見渡せばわかるように、キリスト教はいまでは、表現の自由、人権、民主主義と良好な関係を保っています。キリスト教の本質は変化したと結論づけるべきなのでしょうか? あるいはキリスト教を活気づけている「民主的精神」は、十九世紀ものあいだじっと身をひそめて、ようやく二十世紀の半ばになって姿を現したと考えるべきなのでしょうか?(アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』[小野正嗣訳]、pp.63-64)*1
マイケル・ローゼン『尊厳――その歴史と意味』に曰く、

(前略)一九世紀全般から二〇世紀にかけて、自由主義社会主義、民主主義、女性の解放など、様々な形態の平等主義に対抗する守旧派的抵抗にカトリック教会がどれほど関与していたか、今日ではほとんど忘れられている。(一九四八年より前に「尊厳」という言葉を採用していた比較的少数の憲法のなかのふたつは、サラザール体制のポルトガルフランコ体制のスペインのものであった――双方ともカトリックの国であり、どちらも社会的平等と人権尊重の楽園と呼べる代物ではなかった。)二〇世紀半ばにカトリックの社会思想に生じた変化がどれほど巨大なものであったかを正しく理解しようとすれば、尊厳に関するカトリック思想の多くに見られた反平等主義的な性格を認識することが重要である。人間の尊厳の考え方と平等な人権の間に本質的な結びつきがあるのは当たり前だとみなすと――歴史的な視点を抜きにして世界人権宣言やドイツ連邦共和国基本法といった文書を見ると、容易にそう思い込んでしまう――、私たちは、カトリックが社会的平等の教義を受け入れたという事件がいかに重大であったかを見逃すことになる。(p.67)
教皇レオ13世*2の「結婚について」という1880年の回勅では、「女は、男の肉の肉であり、骨の骨なのだから、自らの夫の支配を受け、彼に従わなければならない」と述べられている(Cited in p.64)。なお、この「女性は男性に従属すべきだという考え方」は教皇ヨハネパウロ2世による1988年の「使徒的書簡」「女性の尊厳」において否定されている(p.68)。
また、レオ13世1881年の回勅「市民的権力の起源について」で曰く、

より最近になって、とても多くの人々が、……全ての権力は人民に由来するものだと言うようになった。したがって、国家において権力を行使する者は、自分たち自身の権力としてではなく、人民から委託された者として権力を行使するのであるから、この規則によって、権力を委託した人民そのものの意思によって解任されることも可能だということになる。しかし、支配する権利は自然かつ必然的な原理に由来し、神に由来するものであると確信するカトリックは、これらに異議を唱える。(Cited in p.66)