アングリカン?

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070419/1177001631


http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070420/1177088832ではURLを挙げただけだけだったが、この「あんとに庵」さんのテクストは続編たるhttp://d.hatena.ne.jp/antonian/20070420/1177085808ともども、深く鋭い洞察に満ちており、是非一読を勧めたい。
ところで、「あんとに庵」さんはジョン・アーヴィングの『オウエンのために祈りを』という小説を採り上げている。私はその小説を読んでいない、というか、アーヴィングの言葉は、1980年代の上野千鶴子らを交えたシンポジウム*1での発言以来読んでいないので、この小説やその読みについて云々する資格がないが、ちょっと意外だなと思ったことがあった。
「あんとに庵」さん曰く、「主人公の親友オウエンは、成長しない肉体と奇妙な声の持ち主で、貧しいカトリックの両親の元に生まれ、カトリックを蛇蝎のように嫌う信仰深いアングリカン、頭が異常に切れ、常になんらかの怒りを抱え、冷笑的に世界をみている」。私の印象では、アングリカンというのは、基督教(特にプロテスタント)の諸派の中でも、〈狂信〉ということから最も遠い存在である。リベラルな上流階級御用達の「たしなみ」(大村英昭)の宗教。そもそもが英国王室御用達だったし*2。それだけではなく、初期の教義形成において、エラスムスの影響が強かったということもあるだろうし、また理屈で攻める主知主義ではなく、ゴージャス且つエレガントな儀礼によってうっとりさせることに重きを置く感覚主義だということもあるのだろう。世界的に有名なアングリカンの信者といえば、英国王室のほかには、エドワード・サイードネルソン・マンデラが思い浮かぶ。或いは、社会学者のロバート・ベラー*3
ところで、犯人の耶蘇への同一化ということがいわれているが、昔立花隆氏が『アメリカ性革命報告』

アメリカ性革命報告 (文春文庫 (330‐1))

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の中でも書いていたように、耶蘇への同一化は〈十字架に架けられた者〉である耶蘇の受難の追体験である以上、マゾヒズム、特に自虐に向かうのではないかと思うけれど、如何か。但し、他者への暴力と自己への暴力は分離できないこともありうる。http://d.hatena.ne.jp/nessko/20070418/p1では、犯人が「自殺」したことを巡って、

犯罪実話本を読んでいると、銃による大量無差別殺人の後犯人が自殺する事件というのは何例か出てくる。精神が退行したような状態になったときにとる行動というのは、パターン化するということなのだろうか。
と書かれている。これを読んで思い出したのは、マルグリット・デュラスの『ラホールの副領事』。
ラホールの副領事 (集英社文庫)

ラホールの副領事 (集英社文庫)

「ラホールの副領事」は群衆に向けて銃を乱射し、職を解かれる。彼は群衆を撃つ以前に、自宅の鏡、つまりそこに写った自己の像を撃っていた。彼は〈デュラス的世界〉においては、もう1人の自殺者であるカルカッタ*4仏蘭西大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルと対になるのだろう。『インディア・ソング
インディア・ソング (河出文庫)

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インディア・ソング [DVD]

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において、アンヌ=マリーは「ラホールの副領事」の横恋慕を拒絶して、自ら印度洋に身を投じる。世の罪・穢れを引き受け、印度の大地へ自らを差し出したかたちでの彼女の死は、ずっと〈耶蘇的〉であるのかも知れない。

*1:朝日新聞社から単行本が出ていた。

*2:そのせいで、米国独立直後、米英関係が安定するまでは、〈英国の回し者〉、〈革命の敵〉として、迫害を受けていた。

*3:ベラーは長老派からアングリカンに改宗したわけだが、その理由のひとつには、アングリカンが儀礼を重視することがあったという。

*4:現実には、カルカッタ仏蘭西大使館はあり得ない。