縄文まで

小倉和重「遺跡から見た印旛沼と人とのかかわり」『印旛沼』(印旛沼環境基金*1)42、pp.2-3、2022


曰く、


印旛沼*2の成り立ちは、地球規模の気候変動や地殻変動による数万年単位で語られる。(略)約13万年前、千葉県のほとんどは古東京湾という海の底であったが、約2万年前の最寒冷期には海水面の低下により陸地化した印旛沼の底には川が流れており、深さ50mほどの深い谷があった。このときに形成された地形が印旛沼の基本形になっている。その後、海進と海退を経て内海から汽水域へと変化し、近世の瀬替えや近現代の水路工事を経て現在私たちが見る姿となっている。(p.2)

約9千年前に始まった縄文海進(温暖化による海水面の上昇)により、印旛沼一帯は古鬼怒湾と呼ばれる内海であった。人々は丸木舟を使って積極的に海に繰り出し、水産資源を獲得していた。その痕跡が貝塚である。
この頃の代表的な貝塚に、佐倉市間野台貝塚や上座貝塚がある。貝塚からは竪穴住居跡や炉穴と呼ばれる屋外の調理施設が見つかるが、それらが廃絶した後の窪みに貝が捨てられる。主な貝は、ハイガイ、カキ、ハマグリ、アサリ、シオフキガイといった海の貝である。(ibid.)

約3千年前になると、海岸線の後退によって貝塚を構成する貝の主体は、汽水域に生息するヤマトシジミに変わる。佐倉市井野長割遺跡や佐倉市吉見台遺跡では、貝塚からイノシシやシカなどの哺乳動物に加え。海と川を行き来するウナギのほか、エイ類やイワシ類。ハゼ科、スズキ属、クロダイ属などの魚の骨が見つかっている。(ibid.)