1000頁のダンス

沼野充義*1「千ページ 近代ロシアの一大文化絵巻」『毎日新聞』2021年9月4日


オーランドー・ファイジズ『ナターシャの踊り』の書評。
「二世紀半にわたる、近代ロシアの文化の歴史を魅力的に語った本」。「厳密に時系列にそって重要な項目を網羅して記述した編年体の歴史ではなく、テーマ別にロシアの国民的アイデンティティーと文化をめぐる興味深い事実と挿話を組み合わせながら、様々な文学作品からの引用をふんだんに盛り込んで織りなした一大文化絵巻」。「著者はイギリスを代表するロシア史研究者」。
タイトルについて;


表題の「ナターシャの踊り」とは何だろうか。(略)トルストイの名作『戦争と平和』の一場面である。伯爵令嬢のナターシャは、変人の「おじさん」の住む質素な丸太小屋を訪ねたとき、その場の雰囲気に突き動かされるように、いきなり民衆的な踊りを披露し、居合わせた人たちを感動させる。貴族のお嬢様が知っている踊りといえば、上流階級の舞踏会で踊られるフランス式の社交ダンスだけのはずだ。とすると、「生れながらの感性」によってロシアの民衆文化を体得していたのだろうか。
トルストイは現実をありのままに描くリアリズム作家だとされる。しかし、さすがにこのようなことは現実にはあり得ないだろう。ではこれは何なのか。ファイジズは「上流層のヨーロッパ文化と農民のロシア文化という二つのまったく異なる世界の出会い」が芸術的に表現されたものととらえ、そこに農民との国民的連帯を目指すリベラルな貴族たちの願望を読み取る。本書では貴族文化(ヨーロッパ的)と農民文化(ロシア的)という乖離していた二つの世界の複雑な相互作用が、ロシアの国民意識や芸術作品にどのように作用したかが追求されることになる。
この本は、作曲家ストラヴィンスキー*2が1962年に蘇聯に一時帰国したエピソードで閉じられるという。
何か、井筒俊彦先生の『ロシア的人間』*3を思い起こさせる。