「学習塾」と『資本論』と

奥泉光熊野純彦「ここにしかない出会い  岩波文庫と私 2」(in 岩波文庫編集部編『岩波文庫と私』*1岩波書店、2017、pp.12-21)


冒頭の部分をメモ;


奥泉 若い頃、同じ学習塾でアルバイトをしていた熊野さんと『資本論』の読書会を一緒にやったことがありましたが、僕は大学に入るまで、社会科学には関心が全然なかったんです。哲学方面にもそれほどなくて、まあ小説は好きだったので、大学に入ったら文学でもやろうかな、ぐらい、それがたまたまマルクスを読む機会があって『資本論』を読んだら、これが面白い。それからはヴェーバーだなんだと読むようになったんですが、塾で会った熊野さんは哲学者・廣松渉さんの弟子で、当然マルクスを読んでいる。じゃあ、ちょっと一緒に読もうか、となったんですね。
熊野 ひと夏毎晩飲んでね、奥泉さんがまだ、古代経済史と旧約聖書学が交わるところが専門の若手研究者だった頃のことです。一応ドイツ語で読むことになっていて、でも傍らに置いている日本語訳は、僕は岡崎次郎訳、奥泉さんは長谷部文雄訳で、あいにくどちらも岩波文庫向坂逸郎訳)じゃなかった。(pp.12-13)
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

そういう繋がりというのは全然知らなかった。
まあ、岩波文庫向坂逸郎訳は岡崎次郎の下訳をそのまま流用したもので、大月の岡崎次郎訳は(実は)岩波文庫の改良版ということじゃなかったか。
小野正嗣沼野充義「言葉が作り出す空間へ 岩波文庫と私 1」からも最後の部分をコピー;

小野 ある本を読んで、ワーッと吸い込まれるのは、作品のほうがこちらに関心を持ってくれているんじゃないか。作品にも合う、合わないがあって、合う時というのは、こっちの心の声に作品がじっくり耳を傾けてくれている感じがするんです。
沼野 相互的ですよね。僕も、研究者を目指すような学生たちを見ていると、研究をやっていても面白くなさそう、単に業績を上げるための研究かと思えてくる時がある。そういう人の研究に魅力がないのは、作品に向かい合う時の人間としての魅力がないからなので、作品の側が受け付けない。すごく変なことを言っているかもしれませんが、魅力的な作家に出会うためには、自分自身にそれに見合った魅力がなければだめなんです。何を読んでも、「あぁ、つまんねぇ」と言って投げ出す人がいる。でも、投げ出す前に、自分に魅力がないからいけないんじゃないかな、と考えてみたらどうでしょう。
小野 自分が拒否しているんはなくて、作品が対話を拒否しているんですね、その人に。いいことを聞きました。(pp.10-11)