東山彰良*1『流』における「わたし」(「葉秋生」)の日本語習得を巡る記述;
ちょっとあっさりすぎないか?
なしくずしに龍関*2で働くようになったわたしは、たちまち自分に語学の才能があることに気づいた。はじめは国際電話に応対するためだけに独学で日本語を学びはじめたのだが、たちどころに簡単な日常会話を習得し、二、三年も経つころには日本人と口喧嘩できるほどにまで上達していた。考えてみれば、わたしは『朧月夜』を口ずさんでいた高校生のころから、けっして日本語が嫌いではなかったのだ。
毛毛を失った悲しみと怒りを、わたしはすべて日本語にぶつけた。わたしの日本語は、卑屈で不穏な表現のなかから産声をあげた。「思い知ったか」、「ざまあみろ」、「いまさら遅い」、「悪いけど、それはできない」などなどを、わたしはすくなくとも三から五とおりのちがった言葉で表現できる。仕事の行き帰りの車のなかでも、ずっと日本語の教材を聴いていた。しまいには日本語で夢まで見るようになった。(pp.372-373)
*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/06/14/084109
*2:「龍関食品貿易有限公司」。「明泉叔父さんが、明泉叔父さんのような一発狙いの仲間たちと」始めた会社(p.371)。「一九八〇年代に入り、景気が上向きになった日本では外食産業が燎原の火の如き勢いで燃え広がっていた。わたしたちの会社はそんな日本のファミリー・レストラン産業にほうれん草やニンジンなどの野菜を卸していたのだが、これが大当たりした」(ibid.)。