「隠士」としての

図書館で久松潜一*1『契沖』(吉川弘文館、1963)を見かけたので、借り出した。
契沖*2国学の祖でありながら、手頃な伝記などを見かけたことがなかった。
久松は契沖を「隠者・隠士・畸人という系列」(p.3)に位置づけている。


(前略)彼が加藤家の重臣の家柄に生れ、しかもその加藤家が徳川家の幕府の政策と相いれず改易されてゆくことから生ずる、家の悲運の中に人となったことが、武家に対する反骨ともなり、それが隠士として生きる気骨を養うことにもなっている。元禄時代という花やかな時代に生まれ合わせていながら、契沖には太平の逸民という明るさがなく、秋霜烈日の感を与えるのも、そういう点から来ていると思われる。歌には恋歌もあり、人間観としては恋愛をも認めているようで、文学観としても恋愛を重んじているが、実際生活の上では恋愛の経験もなかったらしく、終世独身の清僧として清純な生涯を終わっている。下河辺長流・微雲軒その他数は少ないが、心を許しあった友があり、また弟子をも愛している点から見ても、心の暖い点はあったのである。ただ武士出身としてのきびしさはあり、親しんでなれしめない所はあったであろう。徳川光圀(水戸義公)*3に対する態度にしてもそれが見られる。(pp.1-2)

(前略)契沖の祖父下川元宜は加藤清正*4に仕えて五千石をはみ、その長子元真は1万石をはんでいる。しかし元宜の子で元真の弟である元全*5の時に加藤家は没落し下川家一家は禄から離れるのである。元全の長子元氏は禄を求めて越後(新潟県)にいったりしているが、かつては高禄の武士であった家が禄に離れた時の家庭の暗さは想像しても明らかである。そういう家に生れた契沖が少年にして出家したことも首肯される。真言僧として高野山で修行し、やがて曼荼羅院の住持になるが、普通の僧侶として檀家をかかえたわずらわしい住持生活に堪えられず、寺を出奔して一時は室生山に入って死のうとするが、やがて山村にこもってしまう。はじめ和泉の久井村(大阪府和泉市)に五年ほど住み、後に近くの万町(同上)の伏屋家に四年ほどおり、約十年の山村の生活の後、母を養うために再び妙法寺*6の住持になって約十年を過すが、母がなくなると寺をゆずって円珠庵に隠棲するのである。その間を通して古典の学に励むのである。親しい友で同じく武士の境涯から離れて隠士生活を贈る下河辺長流が徳川光圀に請われて『万葉集』の注釈を行っているが病気のため業が進まないので、契沖は代って『万葉集』の注釈を行う。その注釈を『万葉代匠記』というのは長流に代ってなした意である。契沖はその学徳を認められて光圀に仕官をすすめられるが、辞退してただ万葉注釈だけは初稿本と精撰本と二通りまで書いている。このような境涯や態度のうちに隠士・畸人としての生き方がある。(pp.6-8)