「弁証法」?

http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20100625/1277477865


曰く、「「武装した農民」が身分としての「武士」になるには、それこそ弁証法的展開が必要となる」。また、「「武装した農民」から「武士」への弁証法的展開の触媒となったのが軍事貴族である」。
弁証法的展開」とか「弁証法的展開の触媒」というのがよくわからない。上のエントリーで述べられていることは清和源氏が自らを「武家の棟梁」として確立していく多世代的なプロセスであり、それ自体としては明瞭である。しかし、「弁証法的展開」とはこれ如何に?
上のエントリーによれば、源氏が自らの「武家の棟梁」としての地位を固めた契機は前九年の役後三年の役である;


頼義は安倍氏との12年戦争の中で東国の武士と関係を深め、武家の棟梁としての地位を確立して行く。逆に言えば、皇族出身の頼義と結びつくことで、「武装した農民」は頼義の家人として認定され、朝廷つまり〈共同体ー内ー第三権力〉の一角を構成する強力機構として位置付けられるのである。ここに我々が連想する「武士団」が成立する。
勿論この説明は妥当であり、納得できるものであるが、これと「弁証法」との関係はよくわからない。
さて、

「貴族」とは端的にいえば官位を持つ人々である。事実上従六位以下は事実上機能していなかったので、六位以上が「貴族」となる。五位以上で清涼殿への昇殿を認められた人々が殿上人で、それ以下が地下人である。殿上人になると「卿」と呼ばれる。そして三位以上になると「公」となる。「公」と「卿」を併せて「公卿」といい、さらに参議以上が議政官として政治に携わる。我々は「平安貴族」という時、どうしても議政官もしくは「公卿」を念頭に置くが、実際には実務を担当する下級貴族がいる。五位、六位の地下人である。彼等もまた貴族である。そのような貴族の中に多くの賜姓皇族がいた。天皇の子孫で、「平」や「源」の姓を賜り、臣籍降下した人々で、村上源氏を筆頭に朝廷内部で勢力を扶植していた。桓武平氏高棟流など多くの貴族が存在したが、その中で清和源氏河内源氏摂津源氏桓武平氏の高望流、特に伊勢平氏が武力を以て台頭してきた。承平・天慶の乱で活躍した平貞盛藤原秀郷源経基の子孫が「軍事貴族」として知られている家系である。
素人による突っ込みで恐縮ではあるが、最近読んだ本郷和人天皇はなぜ生き残ったか』*1によれば、「殿上人の中でも一位から三位までをとくに「公卿」と呼ぶ」(p.35)。また、

大臣は名に「公」という尊称を付す。たとえば藤原兼実公の如し。大・中納言と参議は「卿」を付し、藤原定家卿などという。それゆえに中納言徳川光圀水戸黄門)を光圀公と呼ぶのは本来は誤っていて、光圀卿でなくてはならない。また、この「公」と「卿」をあわせ、「公卿」という称号が成立している。(pp.38-39)
天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)

天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)

ところで、桓武平氏清和源氏、W氏謂うところの「軍事貴族」の擡頭については、岡野友彦『源氏と日本国王』の、

(前略)桓武平氏清和源氏は、中央政界での出世の道が、その出自の低さによってほぼ確実に閉ざされていた。しかし、実にそのことこそが、彼らを地方へと向かわせ、ひいては次の時代の主役へと成長させていくきっかけとなっていったのである。言ってみれば、東京でのエリートコースに乗りそこねた非主流派の二人が、地方でベンチャー企業を立ち上げた結果、それが次世代の主流産業へと成長していったようなものだ。今日の逆境は明日への好機。まさに禍福は糾える縄の如しと言えようか。(p.107)
という説明がけっこう気に入っているのだが、如何なものだろうか。
源氏と日本国王 (講談社現代新書)

源氏と日本国王 (講談社現代新書)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100617/1276774325 この本の第2章は、本全体の論旨を離れて、律令的な貴族制度の基礎知識という点でとても有益だと思った。