「源氏」と将軍?

続けて同じ方に突っ込みを入れるというのは何だか変な感じもするのだが。


また、「日本」原理、中世日本に於いての「国学」誕生が、滅亡した明からの亡命朱子学者の自国で果たし得なかった理念と、徳川御三家の中でも一番格下の水戸徳川によって制作された「中国的世界観「天下」をもって統治の論理とした。経済力では到底太刀打ちできない水戸徳川は、徳川政権正当性担保という権力根拠支配を握ることで、他家の上格に居座ったのです。
 
昔破れ滅びた(=南朝)※としても正しい行為は「天下」を動かし、「天命」を受けた子孫(=家康)によって完成する」という下剋上を制覇した徳川政権の正当性神話成立根拠に他ならなかったということです。
 
家康が「征夷大将軍」として朝廷認可を受けるには「源氏」でなければならないので、南朝の徳川家と家系図をでっち挙げた。これが後、明治の「南北朝論争」に迄後を引きずることとなります。
http://h.hatena.ne.jp/hizzz/9258647635487195573
先ず、反儒学としての「国学」と儒学としての水戸学は区別するべきだろう。また、同じ水戸学とはいっても、徳川光圀の時代の初期水戸学と徳川斉昭の時代の後期水戸学の間には質的な差異が当然認められる。 
「経済力では到底太刀打ちできない水戸徳川は、徳川政権正当性担保という権力根拠支配を握ることで、他家の上格に居座ったのです」。徳川光圀やその側近の学者たちの主観においてはそうだったかも知れないが、その主観をどうやって測り知るのか。徳川幕府の正統性に関しては、「南朝」を持ち出すまでもなく、徳川家康が乱世を収め、新秩序を樹立したこと自体によって、周の文王に匹敵する〈聖人〉とされることによって、儒学的には担保されていた。それを改めて定式化しようとしたのが荻生徂徠ではなかったか(例えば、野口武彦荻生徂徠』を参照)。また、神道・仏教的には、徳川政権は家康が(天台宗コスモロジーによって)東照神君東照大権現となることによって、正統性を確立している。また、「徳川御三家」の課題は何よりも自分たちと他の数多の大名たちの区別を確証することだった。自分たちは将軍家の親戚ではあるが家臣ではないこと。そのために呼び出されるのが朝廷(天皇)だった(安丸良夫『近代天皇像の形成』、pp.54-55)。
近代天皇像の形成 (岩波現代文庫)

近代天皇像の形成 (岩波現代文庫)

「「征夷大将軍」として朝廷認可を受けるには「源氏」でなければならない」ことはない。鎌倉時代には藤原氏や皇族の将軍もいた。何度か言及したことがある岡野友彦『源氏と日本国王*1によれば、将軍は源氏であることが望ましいという観念は存在したが、源氏でなければ将軍になれないということはなかった。織田信長天正10年に正親町天皇から太政大臣か関白か将軍のいずれかにしてやりたいというオファーを受けている(pp.157-158)。秀吉は天正12年に正親町天皇から将軍任官を勧められた」が、断っている(p.159)。信長は平氏を名乗り、秀吉もその頃は平氏を称していたとされるが、何れも彼らが源氏でないことは問題になっていない。藤原氏を称していた徳川家康が源氏を名乗り始めたのは、豊臣秀吉によって関東に転封され、江戸入りした頃であり、将軍云々とは関係ない。岡野氏は、家康が清和源氏の中の新田の支流を名乗ったのは、自らの江戸入りを、北条氏を打ち破って鎌倉入りした新田義貞に重ね合わせようとしたからではないかと推測している(p.160ff.)。ただ、徳川家が新田支流を名乗ったことが江戸時代の南朝表象に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
源氏と日本国王 (講談社現代新書)

源氏と日本国王 (講談社現代新書)

ところで、後期水戸学を巡っては、安丸先生の『近代天皇像の形成』、pp.127-140と小島毅靖国史観』*2を取り敢えずマークしておく。

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

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