加藤vs.細川?

少し前の『朝日新聞』の記事;


崩れた石垣に観音菩薩現る 熊本城内の宮司がFBに投稿

ちひろ

2016年5月14日18時51分

 熊本地震で大きな被害を受けた熊本城(熊本市中央区)で、崩れた石垣の石から戦国時代に彫られたとみられる「観音菩薩(ぼさつ)」が見つかった。

 4月16日の本震では北大手櫓門(きたおおてやぐらもん)跡の石垣が崩れ、城内にある加藤神社の境内に石が散乱した。湯田崇弘宮司(44)によると23日、このうちの一つの石の側面に観音菩薩が彫られているのを確認したという。

 観音菩薩は40センチほどで、蓮華座に立ち、左手には蓮(はす)のつぼみのようなものを持っている。後光も描かれており、湯田宮司は「震災でみなさんの気持ちが沈んでいる中、本当の光のように感じました」と話す。今月11日、神社のフェイスブックに載せたところ、14日昼までに、7万5千人に読まれたという。

 市熊本城調査研究センターの美濃口雅朗主幹(55)によると、描かれている面がきれいに研磨されていることなどから、元々は「板碑(いたび)」と呼ばれる仏像を彫って供養する石碑で、築城の際に石垣に転用されたと推察されるという。15〜16世紀に彫られたものと考えられ、美濃口さんは「築城以前の人々の暮らしや、築城時の様子が垣間見える貴重な資料だ」と話す。(荒ちひろ
http://www.asahi.com/articles/ASJ5G5G9DJ5GPOMB00J.html

細川家の殿様たちを祀る出水神社が熊本城*1の外にあるのに対して、加藤清正*2を祀る加藤神社*3は城内にあるのか。この神社も明治の所謂神仏分離の過程で創建されたわけだけど、法華経の行者=日蓮宗の篤信者だった加藤清正は自分が「神社」に〈神〉として祀られていることについて、どう思っているのだろうか*4
江戸時代の細川藩による加藤清正の霊的な取り扱いは如何なるものだったのだろうか。腫れ物に触るというような感じだったのだろうか。土佐藩の場合*5などと違って、加藤も細川もともに余所者であり、細川が加藤関係者を迫害したり虐殺したりということもなかったわけだが。Wikipediaには「清正公信仰」というエントリーがある*6。ところで、加藤vs.細川に拘りすぎると、佐々成政*7に俺を無視するんじゃないと怒られるかも知れない。熊本において土着勢力の制圧という汚れ仕事を行ったのは成政である。にも拘らず、豊臣秀吉の不興を買い、切腹させられたわけで、〈御霊信仰〉の対象になる資格は十分持っているわけだ。