幾つか想像や妄想

熊本日日新聞』の記事;


「山伏塚」(熊本市西区)にまつわる怖い話 機密漏らし、口封じに処刑か
9/7(月) 14:07配信

熊本日日新聞



 江戸時代初期、熊本城*1築城に関わり、処刑された山伏がいたのをご存じだろうか。熊本市西区池田には、その霊をなぐさめる石碑が建てられた史跡「山伏塚[やんぼしづか]」がある。

 山伏塚は北区津浦町の複合商業施設「APタウン熊本北」の西側で、県道沿いの階段を上った所にある。二つに折れた石碑はほぼ地中に埋まり、刻まれた文字は不鮮明だ。

 市が熊本の昔話をまとめた「くまもと散歩」によると、加藤清正は城の地鎮祭に上方から位の高い山伏「龍蔵院」を招いた。祭事後の酒盛りで酔いが回った龍蔵院は、国の最高機密である城の構造などをしゃべり始めた。このため、同席した武士が口封じのため斬り殺したという。

 この話の基は1700年代に編さんされた「肥後国誌」。「龍蔵院という山伏がなんらかの罪で処刑された」という記述がある。

 処刑理由と方法は1884(明治17)年になって、熊本初の新聞「白川新聞」の創始者である水島貫之が書き加えた。「史実になく死刑になった人の石碑を造るのか疑問だが、聞いたことをそのまま書いておく」と注記している。

石碑の土やコケを落とすと「龍蔵院」の刻字がはっきりと現れた

 山伏の処刑については、熊本市熊本城調査研究センターの木下泰葉さん(30)が別の資料を見つけている。1784(天明4)年に編まれた「古今肥後見聞雑記」に「石こづミ(石子詰)」で殺されたとある。罪人を穴に落とし、上から石を詰めて圧死させる処刑法だ。

 熊本大の安高啓明准教授(法制史)によると、古代から近世初期に各地で行われていた方法。江戸中期以降は公事方御定書の施行で鋸[のこぎり]挽[びき]や磔[はりつけ]、斬首が一般化され、石子詰は見られなくなった。明治の人々にとっては、斬殺の方が石子詰よりも分かりやすかったのかもしれない。

 山伏塚は財務省の所有で、熊本市が1979年に文化財指定。地元自治会の小薗正雄さん(66)は「地域で守って来た山伏塚。これからも大事にしていかねば」。石碑に手を合わせ、表面の土やコケを落とすと「龍蔵院」の刻字がはっきりと現れた。(飛松佐和子)
https://news.yahoo.co.jp/articles/4080806303564fc5ed92589f08960a590adb3f10

「山伏」が行う「地鎮祭」というのもあるんだね! と軽く驚いたけれど、よく考えれば不思議ではない。神式だけなく仏式の「地鎮祭」もあるし、近代以降は基督教式(神父による地鎮ミサ)もあるわけだ。だから、修験道式の「地鎮祭」があっても不思議ではない。ただ、加藤清正日蓮宗の篤信者だった筈だけど*2
あとは想像や妄想の類を幾つか。
先ず、この「龍蔵院」という山伏、罪人としてではなく人柱として殺されたのでは? 罪というなら、余所者に機密事項をぺらぺらと漏らしてしまった加藤清正の罪がいちばん重いのでは? 安全を祈願して人を生き埋めにするというのは現代においても噂としては聞いたことがあるし、その一方で、人柱というのが野蛮で残虐な行いであるという認識や倫理的非難は古来より存在した。そこら辺を合理化するために機密漏洩罪による処刑というストーリーが作られたのではないかと思った。また、「龍蔵院」というのは余所者なのだけど、或る村の旧家の富が昔旅人を殺してその財産を強奪したことに起源をもっているという伝説を思い出した*3
それから、この「塚」が信仰対象となった経緯はどういうものだったのだろうかと思った。一般に何故「塚」(墓)が大切にされるのと言えば、祟りが怖いからだろう。先ず怪現象(それもネガティヴな)があって、事後的に「龍蔵院」の祟りと解釈される。そういう話って伝わっていないのだろうか。何れにせよ、この話は当時の熊本藩にとっては政治的には全く無害な話だったわけだ。それはあくまでも加藤氏のスキャンダルであり、加藤氏が幕府によって改易された後に細川氏は熊本入りしたわけだからだ。