呉座勇一 on 「陰謀論」

伊藤大地*1「なぜ、陰謀論がはびこるのか? 本気で論破しまくる本を出した歴史学者が語る怖さ」https://www.buzzfeed.com/jp/daichi/nobunaga-kuromaku-inbo


「歴史本にありがちな陰謀論の数々を、学者が本気でボコボコにする本」『陰謀の日本中世史』の著者、呉座勇一氏へのインタヴュー。


本屋に行って歴史コーナーを覗くと、フィクションだかノンフィクションだかわからない「歴史エンタテイメント」が山ほど積まれている。そしてそこには、「隠された真実」「メディアが決して報じない」などと帯文が書かれている。

徳川家康明智光秀と提携して織田信長を討った、という「家康黒幕説」があります。丹念に史料を読めば、まるで論理が成り立っていないことがわかる、この説をあつかった本が、出版社の公称で30万部も売れているんです。

そうなんだ! 後の方に「明智憲三郎」という人名が出てくるのだけど、もしかして、この人が「30万部も売れている」本の著者なの?

――歴史への具体的言及だけでなく、「なぜ人は陰謀論に騙されるのか」という普遍的な問題にも触れています。陰謀論という言葉を、「特定の個人ないし組織があらかじめ仕組んだ筋書き通りに歴史が進行したという考え方」と定義していますね。


陰謀論の特徴は共通しています。

因果関係をあまりに単純明快に説明したり、論理の飛躍があったり、結果から逆行してそれらしい原因を求めたり。「教科書には載っていない」と謳って。それは、憶測や妄想を教科書に載せるわけにはいかないからですよ。

後世の人間は歴史の結果を知っていますから、「勝者は全てを計算して見抜き、抜かりなく実行したに違いない!」と思いたい。このため、結果的に戦国乱世を勝ち抜いた織田信長は、全てを見通していた大天才と見られがちです。「本能寺の変」に多くの黒幕説が出てくるのも、信長へのある種の英雄願望と、あっけない最期を遂げた明智光秀への過小評価から来ています。つまり、「めちゃくちゃ優秀だった信長が光秀ごときに簡単にやられるわけない! 黒幕・協力者がいるはずだ!」という発想です。

でも、現実はそんなに単純じゃない。信長も光秀もすべて先を見通して行動していたなんて、ありえないんですよ。私たちだってそうでしょう?

納得しやすい、簡単な因果だけで過去を復元できると考えるのは傲慢だと思うのです。

同時代的な事件に関する陰謀理論と違って、織田信長明智光秀は歴史の結末を知らなかったけれど、私たちは結局〈鳴くまで待とう時鳥〉の家康が歴史の勝者だったという結末を知っている。時間的パースペクティヴに由来するその認識(知識)のギャップが利用されているわけだ。

私はエンタテイメントは否定しません。でも、今はフィクションだか、ノンフィクションだか、明確でないものが多いとは思います。きちんとした学問的検証の手続きを経ていないものを史実だと騙って売るのは、おかしいですよね。

今の陰謀論と昔の陰謀論、一番の違いはここなんです。

昔の陰謀論は、自分の正当性を確かなものにするために、プロパガンダとして政治権力が作っていた。だけど今は、お金儲けのために陰謀論を語る、ビジネスとしての陰謀論が多く生まれている。そこが現代的だと思うんです。

「ビジネス」か「プロパガンダ」かというのは「今の陰謀論と昔の陰謀論」の違いというより、対象となる時代の違いなのでは? 緩やかな意味では現在といってもいいような近い過去、例えば911や311は実はまだ完全に過去になりきっていない。それは政治や経済、或いは私たちの生活に影響を及ぼし続けている。911や311をどう解釈するのかということは現実的な利害関係とも結びついている。それに対して、中世史、例えば「本能寺の変」に関する現実的な利害関係はきわめて稀薄だと言える。織田信長の子孫である織田信成明智光秀の(女系の)子孫であるクリス・ペプラーが手打ちをするということはあったけれど*2。まあ、徳川家康が「本能寺」の「黒幕」だったとしても、織田信長の子孫が家康の子孫を、損害賠償を求めて訴えるということはないだろう。

陰謀論が受け入れられてしまう背景には、歴史エンタテイメントと歴史学、史実との区別があまり明確になされていないことが大きいと思います。

この国で「歴史が好き」というとその実は、「歴史エンタテイメントが好き」ということを指しますね。「司馬遼太郎が好き」だとか。経営者もよく、『竜馬がゆく』や、塩野七生さんの『ローマ人の物語』なんかが挙げられているのを見ます。

長年読み継がれている良質なエンタテイメントですし、娯楽として消費する分には否定はしません。しかし、歴史的事実をある程度踏まえているとはいえ、フィクションの要素を含んでいることは忘れてはいけないと思います。歴史学歴史小説は明確に違うものとして読むべきです。

ここをゴッチャにしてしまうと、陰謀論に簡単に引っかかってしまうんです。

また、「ビジネス」では済まない、近い過去に関する「陰謀理論」を巡って。ケント・ギルバート*3が名指しされる;

――書籍になった陰謀論という意味では、先の戦争や中国、韓国に触れたものも多いように感じます。


ひどいですね。あえて名前を出しますが、ケント・ギルバートさんの本のように、史料をまともに読めない素人による極端な妄説が出版され、それが何十万部も売れています。明確にこれは問題だと思います。

私たちは、歴史に対して、もっと謙虚でなければならない。

「驚きの真実」「隠されていた事実」。そういうものから背を向けて、ひとつずつ、史料や仮説の確からしさを検討していく。謙虚さが必要です。教科書やマスコミが隠蔽しているわけではなく、慎重を期しているだけなんです。そうした歴史研究の難しさが、少しでも伝わればいいな、というのは強く思いますね。

ところで、手前味噌だけど、拙blogで陰謀理論について最初に書いた断章を(何度も何度もで恐縮だけど*4 )ここに引用しておく;

さて、私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉に投影されているわけである。「陰謀理論」というのは、〈主体性〉の崇拝であり、その限りでは〈ヒューマニスティック〉であるといえよう。或いは浪漫主義的ということだろうか。(略)「陰謀理論」のもう一つの機能というのは、主観的というか想像的な〈勝利〉をもたらすということである。「陰謀理論」を唱える人・信じる人にとって、(所謂エリートも含めて)世人はオムニポテントな「陰謀」の〈主体〉によって欺かれており、自分はといえば、「陰謀」によって世の中を好き勝手に操作する力能はないけれども、少なくとも「陰謀」に気付き、それを見抜いているということになる。何かしらロマンティック・アイロニーに似ていなくもない、この〈勝利〉によって傷つけられた〈主体性〉は幾分か癒されるというわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050904
陰謀理論」のほかに、「歴史学」と「歴史小説」(或いは呉座氏のいう「歴史エンタテイメント」)との関係がもう一つの論点のようだ。これは、森鷗外以来の重要な論点である一方で、けっこう単純な問題であるように見えるのに、(少なくとも私は)すっきりとした論攷を得ていない。昔、小田中直樹歴史学ってなんだ?』を何方かに薦められて読んだけれど、これは駄目!
歴史学ってなんだ? (PHP新書)

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