信心の問題

滝山修/滝沢修*1から、滝田修はどうしているのかと、不図気になったり。それはともかくとして、

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20091202/1259701376


陰謀理論について以前書いた断片を、何度目になるのかわからないが、ここでも引用してみる。


 さて、私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉に投影されているわけである。「陰謀理論」というのは、〈主体性〉の崇拝であり、その限りでは〈ヒューマニスティック〉であるといえよう。或いは浪漫主義的ということだろうか。(略)「陰謀理論」のもう一つの機能というのは、主観的というか想像的な〈勝利〉をもたらすということである。「陰謀理論」を唱える人・信じる人にとって、(所謂エリートも含めて)世人はオムニポテントな「陰謀」の〈主体〉によって欺かれており、自分はといえば、「陰謀」によって世の中を好き勝手に操作する力能はないけれども、少なくとも「陰謀」に気付き、それを見抜いているということになる。何かしらロマンティック・アイロニーに似ていなくもない、この〈勝利〉によって傷つけられた〈主体性〉は幾分か癒されるというわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050904

〈偶然〉(或いは、兵学などで〈勢〉というものを認めることができない。〈偶然〉を認めることができないから、〈必然〉を求めてトンデモ道に踏み込んでしまう。たしかに、一見偶然に見えるものからその原因を探求したり、何か法則性(規則性)を見出そうとするのは科学的な態度というか、科学というものの始まりではあろう。でも、こういう人は真っ当な科学の道を歩むことができない。それは〈主体主義者〉だからである。つまり、出来事の起点には(個人であれ集団であれ)〈主体〉があって、その意志(will)の実現として出来事が生起していると考えてしまう。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080125/1201204697
これらに加えて、ここで考えてみたいのは信仰の問題。矛盾した言い方かも知れないが、陰謀理論を信じる者というのは不信心者なのだ。例えば、まっとうなクリスチャンならばこう考える筈だ。良きことも悪しきことも、この世に起こる万のことは神のおはからいによるものである*2。仮令それが自分にとってどんなに辛かったり惨かったりしても、それは神が自分に与えた試練である。陰謀理論を信じる者はそのような神への信仰が欠如している。神が信じられないから、陰謀主体という神擬きを捏造しようとする。

ところで、Yael Naim*3は歌う;


This is a happy end
Cause you don’t understand
Everything you have done
And why’s everything so wrong.
(“New Soul”)
Yael Naim

Yael Naim


曾野綾子三浦綾子を混同する人*4って多いの?