小田亮 on 陰謀理論

http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070920#1190284490


 「陰謀論」の人気は、誰も全体を見通せなくなっている現代社会の複雑さを一気に単純にして縮減してくれることと、自分だけが「真相」を知っているという自尊心を与えてくれることにあるのでしょう。専門家の作り出す公式見解(「正統的な知識」)の権威が崩れて、マスコミの報道への信頼もなくなっている状況は、「陰謀論」の発生しやすい条件を作っていると同時に、「陰謀論」に対する欲求をも生んでいるといえます。専門家システムやメディアが縮減してくれない複雑さの不安を少なくとも解消してくれるように思えるからです。「陰謀」を暴いたところで、現代社会の複雑さは現実には何も変わらないし、「陰謀論」が社会全体を見通せない不安を解消してくれるといっても、「陰謀」による不安をあらたに作り出すわけで、マッチポンプのようなものなのですが。

 ウェブ上のユダヤ陰謀論や宇宙人陰謀論や「反日連合」陰謀論北朝鮮陰謀論のように、「正統的な知識」からすれば荒唐無稽な陰謀論も、非マスメディア系ジャーナリストが流す、もっともらしい「マスコミでは書けない『真相』」といった「陰謀論」(なかには事実に基づいて作られたものもあるのでしょうが、「複雑さを縮減するために、「陰謀」という単純な物語を作るという点では同じです)も、同じ信念(巨大な権力が「真相」を隠している!)から来ていて、同じ欲求に応えるものであり、その効果も同じというわけです。そして、陰謀をしている影の巨大な権力(巨悪!)に果敢に挑むという英雄気分も味わえます。

また、「正統的な知識」と「烙印を押された知識」(トンデモ的知識)との境界線が消失したという議論に関しては、

冒頭で述べたように、「陰謀論」は、専門家システムやメディアが縮減してくれない現代社会の複雑さによる不安を解消してくれるものであり、その前提には、影で社会を動かしている権力のネットワークが「真相」を隠しているのだから、専門家やメディアによる正統的知識や主流社会の「総意的真実」はすべてまやかしだという信念がありました。つまり、「陰謀論」が複雑さを縮減してくれるという機能を果たすためには、正統的知識や総意的真実と、烙印を押された知識としての陰謀論との境界が必要とされるのです。烙印や境界の存在こそ、陰謀論が、影の権力のネットワークの隠している「真相」だという信憑性をえる源泉になるわけですから。そして、ウェブ上や大衆文化においてその境界が浸透的になってきたことは、陰謀論の増殖の条件になっていますが、まったく境界がなくなってしまったら、陰謀論そのものが成立しなくなります。
という。さらに、現在の主立った脅威は「ミレニアム・バグ」とか「環境ホルモン」のような「優越的な知を有することのない、ただただ異質なむき出しの他者」なのだから「21世紀には陰謀論が消滅するだろう」という木原善彦という人の議論に関しては、

たしかに、生活に入り込んだ不快で危険なノイズのような「異質な他者」は、陰謀の主体とはならないでしょう。それらの「他者」は、まさに誰もが見通せなくなった社会の複雑さを象徴した「他者」です。しかし、そのような「異質なむき出しの他者」という象徴が作り出す不安は、それらの背後にある権力ない悪のネットワークによる陰謀論を呼び出してしまうような不安ではないでしょうか。

 というのも、現代のネオリベラリズム社会には、「陰謀論」を喚起する条件があるからです。ネオリベラリズムにおいては自己選択・自己責任論が基調となっていますが、そのためには個々人がある程度、社会について俯瞰した情報が与えられている必要があります。ところが、現代社会では、そのような情報こそ不足しているものです。「異質なむき出しの他者」の情報によって一時的に対処――つまりその他者を排除するという対処――はできますが、人生を選択し、それを自分で引き受けることはできません。「陰謀論」は、そのような情報の欠如想像的に補填し、情報の欠如による自分の「負け」を、「自分が『負け組』なのは影のネットワークの『陰謀』のよるものだ」というように、(自己責任ではなく)自分で引き受けることを可能にするものといえるでしょう。

と反論する。
最後の点に関しては、寧ろ意思も目的もない「異質なむき出しの他者」だからこそ「陰謀論」が要請されるということがあるのだろうと思う。以前、「陰謀理論」について、

私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉に投影されているわけである。「陰謀理論」というのは、〈主体性〉の崇拝であり、その限りでは〈ヒューマニスティック〉であるといえよう。或いは浪漫主義的ということだろうか。そういえば、浪漫主義の時代というのは、〈天才〉という個人的な〈主体〉とともに例えばネーションというような集合的な〈主体〉が構築された時代でもある。「陰謀理論」のもう一つの機能というのは、主観的というか想像的な〈勝利〉をもたらすということである。「陰謀理論」を唱える人・信じる人にとって、(所謂エリートも含めて)世人はオムニポテントな「陰謀」の〈主体〉によって欺かれており、自分はといえば、「陰謀」によって世の中を好き勝手に操作する力能はないけれども、少なくとも「陰謀」に気付き、それを見抜いているということになる。何かしらロマンティック・アイロニーに似ていなくもない、この〈勝利〉によって傷つけられた〈主体性〉は幾分か癒されるというわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050904

未だに流行の衰えを見せない〈陰謀理論〉というのは、一方では陰謀する全能なる主体を設定し、他方では世人は騙されているけれど自分はそれに気付いているという仕方で自らの主体性を救出しようとするものである。また、これは見えている現象の背後に真理ありと主張する限りにおいて形而上学的であり、その隠された「真理」が見えている現象を規定し尽くしていると主張する限りにおいて本質主義的である。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060812/1155398586
と書いた。「陰謀理論」というのは先ず「主体」を捏造し、非人称的な出来事を人称化する作業であろう。「主体」を捏造することによって、不安を恐怖に変容させることができるのだが、これによって、覚悟を決めるというか、出来事への(諦めも含む)対処が容易になる。非人称的な「異質なむき出しの他者」が「陰謀理論」を要請した例としては、先ず(特にアフリカ諸国を中心とする)HIVによるパニックがあると思う。また、2003年の非典(SARS)騒動は(その名に反して)非人称的な「異質なむき出しの他者」によるパニックの典型であろう。その頃、あれは某大国が中国を政治的に失墜させるための陰謀だ云々という「陰謀理論」をよく聞かされた。何故か、上海はSARSの被害を免れたのだが、これも「陰謀理論」者からすると、「陰謀」の証拠となる。上海にはその某国の企業の事務所が沢山あるので(香港にだってもっと沢山あるだろう)、上海を痛めつければ自分たちのダメージが大きいので、上海については手加減した云々。
さて、「陰謀理論」といえば、今流行っている9/11が米国による〈自作自演〉だったという説はどうなのだろうか。たしかに、9/11に関しては、Robert Fiskが自分は「陰謀理論」に加担するわけではないけれど、疑問がいっぱいといっているように*1、怪しいところがかなりあるということは事実だ。しかし、それにしても、この「陰謀理論」は例えばきくちゆみのような世間的には良識的な左派知識人とされている人も嵌っており、(右翼なのか左翼なのかわからないけれど)〈反小泉純一郎〉や〈反安倍晋三〉を掲げる諸々の政治ブログにおける感染率も著しいといえる。こういう人たちは、例えば時津風部屋から麦酒瓶を借りてきて、10回くらい叩いたら改心するということはあるのだろうか。Mixiで誰かが言っていたように思うのだけれど、米国人がこの「陰謀理論」を信じるというのは何処か理解できそうな感じがする。屈折したナショナリズム。つまり、よりによって遅れたアラブ野郎に紐育と五角大楼をやられたということだと、世界に冠たる米国人のナショナリズム的なプライドは損傷される。そこで、米国政府の自作自演ということにすれば、少なくとも後進国、〈アラブ〉にやられたという屈辱は免れることができる。そもそも政府の権威はとうの昔に失墜している。政府を犠牲にしてネーションを救い出すこと。どうなのだろうか。
最後に、小田氏はギデンズ用語の「脱埋め込み」という訳について、「この訳語はなんとかなりませんかね、「離床」あたりが日本語としてはいいのですが」と異議申し立てをしている。私の記憶では、1990年代の前半くらいまでは、disembeddingは離床化と訳されることが多かったと思う。ところが、その後、英国のブレア政権誕生とも関係するのだろうけど、ギデンズがさらにメジャーになって、社会学専攻なら学部生でもギデンズの名前を出して何か一言いえるのが嗜みだみたいな雰囲気になるにつれて(また、英語を読まなくてもギデンズについて語れる条件が整ってくるにつれて)、「脱埋め込み」という訳が当たり前のものとして流通するようになったのではないか。