世を忍ぶ姿は床屋なれど

コロナ・ワクチン陰謀理論*1の余白に。

大塚篤司*2「「コロナワクチンにマイクロチップ陰謀論になぜだまされてしまうのか? 心理を医師が解説」https://news.yahoo.co.jp/articles/6c7afb6a7ecee4e9a9db8a6c7a9ec52584b8740b


小学5年生の頃の経験;


いつも通う近所の理髪店のおじさんが、お客さんがいなくなった店内で神妙な面持ちで話しはじめました。

「大塚くんは秘密を守れるか?」

 小学生の私はその質問だけでドキドキしました。

 誰にも言わないと約束した内容はまさに陰謀論でした。

アメリカの米軍基地にはUFOの着陸場所がある」
「その証拠に、誤ってUFOが着陸した場所にミステリーサークルができている」
「UFOは人間の魂を運んでいる」

 あの時、自分だけで世界の真実を知ってしまったという高揚感は今も忘れられません。自分は選ばれた人間になってしまったのだ、心からそう感じました。

 本当に信頼している友人にだけ、その秘密を教え「自分たちだけが世の中の真実を知っている」優越感を味わいました。

「近所の理髪店のおじさん」が実は国際的陰謀組織の大幹部だったというのはフィクションの設定としてはアリだろう。日本的なエンタメの伝統においては〈やつしの原理〉というのがある。例えば、縮緬問屋の隠居が実は「天下の副将軍」だったとか、裏長屋の遊び人が実は北町奉行だったとか。この原理を自明のものとしておかないと、実際のところ、歌舞伎を楽しむことはできない。
因みに、私は小学生の頃、「虎の穴」に拉致されてしまうんじゃないかという妄想に支配されていたことがある;

しかし、はっきり言って、子どもの頃いちばん怖かったのは「虎の穴」でしたよ。『タイガーマスク』で伊達直人は「虎の穴」に〈スカウト〉されたことになっているのだが、最初に床屋で読んで以来、俺はずっと「虎の穴」に拉致されたと思い込んでいた。それで、「虎の穴」に拉致されたらどうしようと思って、1年くらい人気のない場所は歩けなかったのだった。因みに、当時は、まだ親たちは言うこと聞かないとサーカスに連れてかれちゃうよと子どもたちを脅していたのだった。サーカスに拉致されると、身体を軟らかくするためにお酢ばかり飲まされる。また、「虎の穴」の〈特訓〉の中でもいちばん怖いと思ったのは鰐のプールで泳がされるという奴。
https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110707/1310010518
過去に幾度か述べたのだけど、陰謀理論の拡散や受容には、主体性の危機、主体の無力感と(陰謀理論によって与えられる)限定された全能感のコンビネーションがある。

さて、私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉に投影されているわけである。「陰謀理論」というのは、〈主体性〉の崇拝であり、その限りでは〈ヒューマニスティック〉であるといえよう。或いは浪漫主義的ということだろうか。そういえば、浪漫主義の時代というのは、〈天才〉という個人的な〈主体〉とともに例えばネーションというような集合的な〈主体〉が構築された時代でもある。「陰謀理論」のもう一つの機能というのは、主観的というか想像的な〈勝利〉をもたらすということである。「陰謀理論」を唱える人・信じる人にとって、(所謂エリートも含めて)世人はオムニポテントな「陰謀」の〈主体〉によって欺かれており、自分はといえば、「陰謀」によって世の中を好き勝手に操作する力能はないけれども、少なくとも「陰謀」に気付き、それを見抜いているということになる。何かしらロマンティック・アイロニーに似ていなくもない、この〈勝利〉によって傷つけられた〈主体性〉は幾分か癒されるというわけだ*3
https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20050904