陰謀理論の余白に(何度目か)

承前*1


さて選挙が近くなってくると、ネット上もいろいろと大騒ぎである。あるブログ*2では、現在の自公政権を批判するついでに、「ソン・テジャクこと大作大先生率いる朝鮮カルト『創価学会』」 などというあきれたキャンペーンをやっている。

 公明党を批判するのなら、その政策と政治手法を問題にすべきである。創価学会を批判するのなら、その教義や社会的集団としての振る舞いを批判すればよい。「池田大作在日朝鮮人出身だ」 などというネット上のあやしげな風説にのっかって、「創価=朝鮮カルトだ」 などと言い出すのは、おのれの排外的な差別思想をダダ漏れにしているにすぎまい。

 かのブログの主は、日頃から 「マスコミの嘘にはだまされないぞ!」 とか 「政治家や官僚にはだまされないぞ!」 などと、さかんに力みかえっているようだが、そのかわりに、9.11陰謀論からユダヤフリーメーソン陰謀論まで、ありとあらゆる陰謀論にどっぷりとはまり込んでいる。彼によれば、明治維新フリーメーソンの陰謀であり、孝明天皇も皇女和宮の婿さんだった徳川家茂も、その陰謀によって殺された疑いがあるということらしい。

 それなりに長いはずの人生の中で、彼がどういう経験をし、その結果、今なにに腹をたて、なにに怒っているのかは知らぬ。だが、そうやって、世の中の様々な 「悪」 を体験し、その原因について考えているうちに、どうやら、あれやこれやの 「陰謀組織」 の存在に思い至ったらしい。だが、それでは、テレビで悪の組織 ショッカーと戦う、正義の味方 仮面ライダーや、黄色いマントをひるがえした月光仮面の姿に興奮していただろう、小学生の頃からぜんぜん進歩していないではないか。

 世の中に、邪悪な意思によって統率された、ただ悪意だけにみちた組織が存在しており、その隠れた意思によって、社会や世間の人々が操作されていると考えるのは、典型的なカルトの思考である。総選挙に出馬して、あえなく 「惨敗」 したオウムもまた、そのように考え、見えない強大な敵と戦うために、サリンだのVXだのという 「毒ガス兵器」 を開発し、銃の製造に手を出したのではなかったか。

 おのれを無垢で純粋な 「善」 とみなし、おのれの外部に純粋な 「悪」 が存在するというマニ教的二元論にもとづいた 「陰謀論」 的思考は、差別的で排外的な思考とも、きわめて親和的である。おのれがカルト的思考にどっぷりつかっておきながら、他人を 「カルト」 呼ばわりするとは、片腹どころか両方の腹が痛くなってくる(「片腹痛し」 の語源は、もちろん、「そばにいたくない」 という意味だが)。
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200907280000/

Oh, Henryの場合、『仮面ライダー』が放映された頃には既に陰毛が生えており、影響を受けたのは(ここに名が挙がっているものでは)『月光仮面』だったのだろうと推測できるというのはさておき、サリンなどの毒ガスを最も恐れていたのはオウム真理教だったということを思い出した。主観的には自分たちこそ(陰謀主体による)毒ガス攻撃の犠牲者だったわけだ(大澤真幸『虚構の時代の果て』)。(『宇宙戦艦ヤマト』に由来する)「コスモクリーナー」なる装置があったな。引用した箇所では陰謀理論と「排外主義」との関係にも言及されているが、このオウム的恐怖心は、所謂国士様がピュアな〈祖国〉を希求すればする程、〈祖国〉はfamiliarではなくstrangeなものになってしまうという逆説*3とも通じるだろう*4
陰謀理論については、これで数度目になるが*5

 さて、私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉に投影されているわけである。「陰謀理論」というのは、〈主体性〉の崇拝であり、その限りでは〈ヒューマニスティック〉であるといえよう。或いは浪漫主義的ということだろうか。そういえば、浪漫主義の時代というのは、〈天才〉という個人的な〈主体〉とともに例えばネーションというような集合的な〈主体〉が構築された時代でもある。「陰謀理論」のもう一つの機能というのは、主観的というか想像的な〈勝利〉をもたらすということである。「陰謀理論」を唱える人・信じる人にとって、(所謂エリートも含めて)世人はオムニポテントな「陰謀」の〈主体〉によって欺かれており、自分はといえば、「陰謀」によって世の中を好き勝手に操作する力能はないけれども、少なくとも「陰謀」に気付き、それを見抜いているということになる。何かしらロマンティック・アイロニーに似ていなくもない、この〈勝利〉によって傷つけられた〈主体性〉は幾分か癒されるというわけだ。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050904

という書き付けを、またここに引用しておくことも無意味ではないだろう。乱暴に言ってしまえば、〈主体性〉という病の一症候なのだ。