「批判的合理主義の正義論」

昨日のこと。


 下地真樹「批判的合理主義の正義論」『情況』2006年5-6月号、pp.209-222


を頂く。わざわざ上海までエア・メイルでありがとうございました。メイルの調子が悪いので、この場を借りてお礼申し上げます。
早速拝読した。タイトルの通り、これはポパー流の「批判的合理主義」から出発した議論なのだが、(私のように)現象学系の議論に慣れた者にとっても刺戟的である。
このテクストの全体は先ず


人々の意見の対立を「神々の争い」と呼び、どっちもどっちの共約不可能なドグマ同士の対立と捉え、議論を不毛なものと考える認識は間違っている。私たちの意見の対立は極めて多くの場合に共約可能であり、議論それ自体が持つ力によって意見を変えていく可能性に開かれている(p.210)。
という言葉に集約されているように思われる。「対立」を「共約可能」にするものは何か。下地氏は小林和之(『「おろかもの」の正義論』)を援用して、「「基底的な」価値」としての「生命」*1を導き出す(p.210ff.)。何故「基底的」なのかといえば、小林によれば、「生命は、生命より重要なもののために、ただ一度だけ使うことができる価値だから」である。曰く、

私たちが自らが望む価値の実現を目指して生きていけるためには、単に生命が維持されているという以上の条件を必要とする。私たちは価値の実現のために、様々な具体的な身体的・精神的活動を行う。一つには、そうした活動が妨げられていてはならない。たとえば、ある種の思想・信条が「持ってはならない思想」としてアプリオリに排除されていてはならないし、奴隷的拘束を受けたりしていてはならない。と同時に、そうした身体的・精神的活動を可能にする物理的、あるいは経済的条件が存在していなければならない。単に拘束されないというだけでなく、具体的な経済的資源へのアクセスを必要とする。たとえば、水、エネルギー、医療といった私たちの生にとって欠かせない財やサービスが入手可能でなければならない。基底的な価値には、こうした様々なものが含まれる。私たちが生きていけるためには、そのための条件が必要である(pp.210-211)。
その上で、下地氏は、アマルティア・センを援用し、その「基底的価値」の「実質的内容」を「できること」*2=「機能」とし、その「機能」の「集合」=「リスト」を「潜在能力」とする(p.211)。但し、

そのリストに記載された機能をすべて保障されたとして、それでも十全に生きることができないような誰かが存在しないことを示すことはできない。(略)何が「基底的」であるのか。それはまったく定かではない。私たちが作るリストがどのようなものであれ、そこには常に別のリストが提出される可能性を否定できない。
(略)私たちは、私たちが十全に生きられるような条件を、それを可能にする機能のリストによって表現しようとする。しかし、そのリストが正しいリストであることを確証する手段はない(ibid.)。
さらに、2つの「正義」が示される(p.212)。「帰結主義的正義」(J)と「手続的正義」(K)。

(J)ある社会が正義にかなっているとは、社会のメンバー全員に対して、十全に生きられる状況を実現していることである。


(K)ある社会が正義にかなっているとは、社会のメンバー全員に対して、同意によって約束された何かを現に実現していることである。


(J)は社会的な決定がもたらす経験的事実に基づいて、その社会的決定が正義にかなっているかどうかを考える帰結主義的な正義観である。対して、(K)は社会的決定の帰結を考慮せずに、その決定の導かれた手続きだけを拠り所とする正義観である。
ここにいう「社会のメンバー全員」に関しては、「メンバー設定が結局のところ恣意的にならざるを得ない」という問題がある(p.213)。「メンバー」は「恣意的」に選択される。しかし、これにはある帰結が発生する;

正義はメンバー間において設定されるものであり、ゆえにメンバー間にしか存在しない。とすれば、不正義もメンバー間にしか存在しない。たとえば誰かを傷つけたり、誰かのものを奪ったり、そうした行為が「不正である」として非難できるのは、メンバーとされた者の間でのみ言えることである。メンバーとされなかった者が、メンバーとされなかった者が、メンバーとされた誰かに対して何をするとしても、それを「不正だ」と言うことは誤りである。たとえば、私たちは犬に噛まれたときに、怒ったり泣いたりするだろうが、「それは不正だ」とは言わないだろう。「誰が社会のメンバーと言えるのか」という問いへの答えは、究極的には恣意的なものでしかありえない。しかし、だからといって、私たちが正義をもたらさなかった場所にさも正義が成り立っているかのように騙ってよい理由などないのである(ibid.)。
では、「正義」が問題となる「社会」はどう定義されるのか。下地氏は「社会は一つの公理系である」(p.214)という。すなわち、「社会」は「一つ一つを命題として表現できる」「自然的事実」と「制度的事実」の「集合体」である。この「命題」=「集合体」には勿論メンバーシップや「基底的潜在能力」を構成する諸「機能」も含まれる。しかし、それらの「命題」は「互いに矛盾していてはならない」。下地氏は「ある社会が正義にかなっている」こと(J)を以下の論理式で表現する;


 (1)∀iN, P1…∧PmC1∧…CnRi


 N:「この社会のメンバーの集合」、Pm:「私たちの社会を構成する事実」、C1∧…Cn:「基底的潜在能力」、Ri:「個人iが生きられること」(pp.214-215)。
また、


いかに多くの人々の生において基底的潜在能力が実現されていることを確認したとしても、それは「すべての人において実現されていること」を意味しない。(J)の成立を確証することはできない。私たちの知らないどこかで、十全に生きることが困難な状態に甘んじている誰かが存在していることを否定できないからである(p.215)。
これは「ある社会が正義にかなっていること」を「正当化」することはできないということに繋がっている。しかし、下地氏はそれは「正当化される必要のないものだ」という;

むしろ、私たちはそれを仮説的なものと捉えるべきである。仮説であるから、それは誤りうるものである。誤りであることを指摘されるならば、それは修正されなければならない。しかし、実際にその指摘を受けるまでは、暫定的に受け入れることのできる仮説なのである。社会は正しくあることはできないが、正しくあろうとすることはできる。ゆえに大事なことは、その社会が現に正しくあることの根拠を探すという不可能事ではなく、公理系に潜む欠陥を発見し修正を促すための方法論である(p.216)。
その「方法論」とは何か。それは「反証」=「異議申し立て」、(1)式と矛盾する「命題」=「事実」を提示することである。

異議申し立てが突きつけられるとき、私たちは二つの対応ができる。一つは異議申し立てを反証すること([Ri]を示すこと)であり、いま一つは異議申し立てを受け入れて社会の公理系を変更することである。どちらの選択が正しいのかを一意に決定することはできない。しかし、異議申し立ては常に、私たちに選択を迫るのである(p.216)。

そして、社会の公理系全体としてみた場合でも、それは確固たる根拠を持つものではない。それは「その社会の中では私は十全に生きられない」という異議申し立てがなされない限り、暫定的に正しい社会とみなされる。重要なことは、あくまでもその承認が暫定的だということである。誤りうるものを正しいとみなすことは、常に暫定的でなければならず、その判断の正しさ以上に大事なことは、反証を提示されたときに修正の試みを始めることができるのかどうかなのである。
他方、一度異議申し立てがなされたならば、意思申し立てを反証するか、さもなければ異議申し立てを受け入れて社会の公理系のどこかを変更しなければならない。このような手続きを踏んでいくことで、私たちの社会はより多くの人の生を支える社会へと改良されていく。社会と正義を構成する公理系の中には、絶対的に正しい命題は存在しない。こうした態度は、ある一つの命題を特権的に扱うような態度とは正反対のものである(p.218)。
さらに、下地氏は「手続的正義」への批判を行い(pp.218-219)、「法」についての考察を行うが(pp.219-220)、これについてはここでの言及は省略する。そして、最後に「異なる意見が互いに共約可能になるために必要なことは、「人がその社会の中で十全に生きられること」、この公理を社会の公理系に含めることである」(p.220)ということが示される。
以下に、このテクストに触発されて思いついたことを書き連ねてみる。
現象学で説くところの生活世界への還元の重要性。因みに、ここでいう生活世界はハーバーマス流の「システム」に対立するとされる(その実、パーソンズのIとLを言い換えたにすぎない)「生活世界」とは関係ない。端的に身体である私によって生きられた、(その限りにおいてsystemes penseesに対立する)生きられたシステムの謂いである。それは先ず(その基柢性というよりは)その包括性に関わっている。社会、特に近代社会は複雑に機能分化しており、社会はシステムのシステムとしてしか言い表すことはできないだろう。「共約可能」云々の問題は諸々の「意見」の間以前に、システム間で生起するといっていいだろう。しかし、(それ自体としてはシステムから除外された)身体である私においてこそ「共約」不可能とみえる諸々のシステムが交差する。さらに、これら諸々のシステムは私において構成される(包括的な)生活世界において、「共約」不可能にみえるままに共在することになる。つまり、あらゆるシステムが交錯する社会なるものを焦点化できる地点は(それとは対極的に見えるかも知れない)身体である私なのだと思う。また、「正義」を巡る「反証」=「異議申し立て」或いはそれに対する「再反証」が行われるということは、シュッツのいうworking*3が進行しているということである。これは下地氏が「人の生を無前提に肯定するという公理」を「拒否することは、その人自身の生きる条件を支える論理的根拠を同時に拒否することになる」(p.221)と語っていることとも関連するが、workingが生起する前提は生ける身体としての私である。
さらに、「共約可能性」の問題については述べたいことも多々あるのだが、それは後日ということにする。テクストの贈与に対するコメントの逆贈与(お歳暮)。

*1:これは後の議論からすれば、より包括的な〈生〉とした方がいいだろう。

*2:これをフッサールのいう「キネステーゼ」と関連させて考えられるか。

*3:これはアレントのいうlaborやactionと対立するworkではない。寧ろworkingはアレントのいうvita activaを包括するものといえるだろうか。また、ここでは詳しく述べる余裕はないが、シュッツの「多元的現実」論自体もかなりの再構成が必要であるということもたしかではある。