セラピストとセオリストは違うし、など

田中希生「アーレントデリダhttp://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/52.html


野原さんは「悪質な歴史忘却主義言説」と扱き下ろしているが*1、おじさんとおばさんの名が表題になっている以上、何らかのコメントを残さざるを得ない。だが、それもなかなか一筋縄ではいかない。


真に恐ろしい、正気を失うような経験を記憶しておくほどつらいことはない。記憶を頼りに怒り狂うことのできる人間は、まだ、その経験がひどいものであると判断できる論理を保ちえている分だけ、ましなのである。いまだその経験のさなかにいて、あるいはその経験の記憶に囚われているひとは、もしできうることなら、なかったことにしたいに違いないし、その記憶をアーレントの言う「忘却の穴」にでも放り込みたいところだろう。マジックメモに残された筆跡(=痕跡)よろしく、記憶はいつなんどき、どんなきっかけで呼び出されるかわからないものだ。忘れていたとしても、なにかのきっかけで出てくるということは当然ありうる。それゆえ根本的な治癒になりえないのは明らかだとしても、歴史修正主義者の議論は、患者に対する一時的な快癒をもたらすに違いないのである。彼らはいうのだ、そんなことはなかった、あなたは間違って記憶しているのだ、と。いや、むしろ、根本的な治癒とは、この忘却のことを言うのであり、意図せざる結果だとしても、かえって、歴史修正主義者は、歴史主義者よりもよき精神分析医である可能性がある。歴史主義者は被害者に向かって言うのだ、善人の顔をして言うのだ、あなたは、人類のためにホロコーストの記憶を忘れるべきではないし、それを白日の下にさらして国家主義者どもを糾弾すべきなのだ、と。わたしが代弁してもいい、とにかくわたしにその恐ろしい経験を語ってくれたまえ、なぜなら、あなたが正気を失うようなその恐ろしい記憶は、事実なのだから……。
先ず、セラピストとセオリストでは、そのレリヴァンスは別処にあるだろうとはいえる。セラピストということに限定してみても、「歴史修正主義者は、歴史主義者よりもよき精神分析医である」のか。田中氏のいう〈効果〉のためにわざわざ「精神分析」のようなまだるっこいことが必要なのか。そんなのは向精神薬でも処方しておくというのが医学的にも王道であろう。「精神分析」の目的は分析主体と無意識との和解擬きによって「一時的な快癒をもたらす」ことではなく、分析主体が無意識へと追いやられた〈現実〉を意識へと帰還させ、客観的に省察し、意識に再度配置することをサポートすることであろう。なので、精神分析という実践は〈強い主体〉を前提とし、精神分析に耐えられない弱者は(例えば)集団療法とかに逃げ込むことになる。
ところで、「歴史修正主義者」と対立させられている「歴史主義者」というのがわからない。これはディルタイなどがいう意味なのか、それともカール・ポパーが批判した意味における「歴史主義者」なのか。
さて、このテクストの理解を難しくさせているのは、焦点となる語りの宛先(それは「精神分析」というメタファーを用いるならば分析主体ということになろう)が明示されないままにころころと変わっているということだ。フロイトのいう「戦争神経症」の分析主体は、第一次世界大戦の兵士であろうし、「歴史主義者」が語りかけているとされる(ほんとうにそうか?)相手は「ホロコースト」、或いは一般的に言えばジェノサイドのサヴァイヴァーであり、「歴史修正主義者」の場合はそうしたジェノサイドの加害者または加害者に同一化する人々であろう。これらの立場の全く違う(勿論それ以前にそれぞれのライフ・ヒストリー[生活史的状況]も全く違う)主体たちの経験、トラウマを一括りにして論じていいものなのか、甚だ疑問だ。
私が記憶を所有し、時に忘却という仕方で記憶を捨てたり、失ったりするという近代的な偏見は疑うべきだろう。詳しくは、例えば岡真理『記憶/物語』とかを参照していただくとして、寧ろ私は記憶がこの世に現出するためのメディアにすぎないとも言えるだろう。勿論、様々なモノやテクストも記憶のメディアではある。ハンナおばさんいうところの「忘却の穴」とは記憶がこの世に現れるためのメディアを尽く物理的に破壊せんとする策謀であるといえるだろう。
記憶/物語 (思考のフロンティア)

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話は全く変わるが、記憶/忘却を巡って、或る仏蘭西人女性の名前を再度喚起しておくことはまるっきり的外れなことではあるまい。マルグリット・デュラス*2。とくに『かくも長き不在』、『ヒロシマ、私の恋人』。
かくも長き不在 (ちくま文庫)

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