陰謀理論と主体と意味

承前*1

山本弘*2「「ちきゅう」陰謀説のバカさ加減」http://hirorin.otaden.jp/e173972.html


地球深部探査船「ちきゅう」が東北関東大地震を人工的に起こしたという陰謀理論について。特に論評することはない。ただ、「ちきゅう」についての解説は参考のために写しておく;


「ちきゅう」は2005五年7月に完成、 JAMSTEC海洋研究開発機構)が運用している地球深部探査船である。水深3000メートルの海底から7000メートルの深さまで掘削できる性能を有しており、地球内部の解明を目的とする国際プロジェクト、IODP(統合国際深海掘削計画)の主力船の一隻として調査活動を行なっている。

「ちきゅう」公式サイト
http://www.jamstec.go.jp/chikyu/jp/index.html

ところで、何故陰謀理論なのか。何故それなりに世間知も学歴もある人たちが陰謀理論に飛びついてしまうのか。〈信者〉の科学的無知を論う批判は幾分かの正当性はあっても、〈信者〉には届かないだろうし、また人間的・社会的現象としての陰謀理論の重要な側面を取り逃がしてしまうことになるだろう。以前陰謀理論は主体性の問題であるということを書いた*3

さて、私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉に投影されているわけである。「陰謀理論」というのは、〈主体性〉の崇拝であり、その限りでは〈ヒューマニスティック〉であるといえよう。或いは浪漫主義的ということだろうか。(略)「陰謀理論」のもう一つの機能というのは、主観的というか想像的な〈勝利〉をもたらすということである。「陰謀理論」を唱える人・信じる人にとって、(所謂エリートも含めて)世人はオムニポテントな「陰謀」の〈主体〉によって欺かれており、自分はといえば、「陰謀」によって世の中を好き勝手に操作する力能はないけれども、少なくとも「陰謀」に気付き、それを見抜いているということになる。何かしらロマンティック・アイロニーに似ていなくもない、この〈勝利〉によって傷つけられた〈主体性〉は幾分か癒されるというわけだ。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050904

昨日書いたことと関連するが*4地震津波のような自然現象には主体はない。というか、それは起きる(happen)ものであって、作ったり起こしたりする(make or make happen)ものではない。それで何が困るのか。人事であれば責任者がいて、責任を取ってもらえる可能性もあるし、そうでなくてもその責任者に恨みつらみをぶちまけることができる*5も発することができないということだ。しかし、地震の場合はそうはいかない。責任者出てこい! と叫んでも、地震さん(プレートさん?)が出てきて謝罪したり・開き直ったりすることはない。陰謀理論は恨みつらみをぶちまける宛先を見出せずに戸惑っている人に、(偽物ではあれ)責任者を提供することができるといえるだろう。また、自然現象に主体がないということはvouloir-direとしての意味*6。ここでも、陰謀理論はvouloir-direする主体を提供する。自然現象は取り敢えず有意味なものとなる。「天罰」論*7も同様な効果を持ちえる*8
陰謀理論にも「天罰」論にも陥らず意味を獲得すること。鴉が意味もなく反復するNevermoreという語に何とか意味を見出そうとするポーの詩の主人公を考えてみる。ポーはこの「鴉(Raven)」という詩を「詩作の哲学」で自らテクニカルに解説しているのだが、彼の設定によれば、「頭では、鳥が芸として覚えたことをただ反復しているにすぎないことを[主人公の]男は百も承知している」(p.171)。しかし、Nevermoreに応答して何が達成されたのか。ポーによれば、「最も耐えがたいがゆえに最も甘美な喜び」(ibid.)ということになるのだろうけど、他方でNevermoreというどうしようもない語に触発されて、主人公の男は失われてしまって現実的には奪還不可能な〈過去〉を言語に定着・客体化するという仕方で取り戻したともいえるだろう。これはいかがわしい主体の発するvouloir-direとしての意味ではなく、不在を不在として再現前せしめるmoaning/meaningとしての意味であろう。「天罰」を云々する石原や城内やその他の人に欠如しているのは、屈原*9が行った「天問」だと言っておこう。
ポオ評論集 (岩波文庫)

ポオ評論集 (岩波文庫)

楚辭―譯註 (岩波文庫 赤 1-1)

楚辭―譯註 (岩波文庫 赤 1-1)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110326/1301089033 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110417/1303010257 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110424/1303573112

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101210/1292006456

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091019/1255890095 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080125/1201204697 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091203/1259772205 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100527/1274940938

*4:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110425/1303707664

*5:理論的に言えば、先ず最初に〈主体〉があってそれが自らの行為に対する責任を引き受けるということではなく、寧ろ逆に責任者出てこい! の呼びかけに(無視も含めた仕方で)応答することによって、私たちは〈主体〉になるといえるだろう。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050706 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070415/1176609189

*6:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060203/1138994284 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060505/1146831091 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090208/1234026998 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091014/1255494247

*7:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110315/1300158151 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110328/1301288749 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110329/1301370489

*8:ただ、石原慎太郎城内実のように上から目線で受難者を貶めるように発せられる「天罰」言説と受難者自身が自嘲的・自虐的に発するかも知れない「天罰」言説とは一応区別すべきだとは思う。

*9:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060602/1149270191 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080606/1212716967 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080729/1217299477 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100113/1263357673 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060829/1156854296