大野左紀子「全員女子世界の正念場(再掲)」http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060209
宮田優子「雅子皇太子妃問題」http://www.absoluteweb.jp/NewFiles/untitled7.html
を読む。大野さんのものは、2004年に書かれたものを今回の出来事*1を契機として再掲載したもの。宮田さんのものは、大野さんがリファーしていたもの。
殊、〈家族〉の話になると、精神分析以上にパワフルな(面白い)理論装置はないんじゃないかとも思えてくる。
大野さんのテクストのポイントは、「全員受け身の女子世界でありながら、女子なるものを忌避し、なおかつ男子としての生き方も認めず、にも関わらず「男子の血」の継承が望まれる超矛盾世界」、「「全員女子世界」なのにバリバリの家父長制」としての「皇室」ということだろうか*2。
宮田さんのテクストから抜き書きしておく;
たまたま何気なくテレビをつけていきなり「雅子様ご逝去」のテロップが入ってきたら、私たちはそれにどう反応するのだろうか。いや、それ以前にそうした事態への心づもりをそもそもしているのだろうか。「こんな結末になるとはまったく思ってもみなかった」というのが、そのときの私たちの率直で偽らざる心境だろうが、でも、だから上記のようなよからぬ妄想を抱く者など一人もいなかったと結論づけてよいかとなると、むろんそうではあるまい。少なくともここ最近の雅子妃を「悲劇のヒロイン」として見立てているのは紛れもない事実であって、当然そこには「最悪のシナリオ」も含まれているはずである。にもかかわらず、「そんなこと予想だにしなかった」と何も悪びれずに平気で答えられるとしたら、それは単に自分がついてる嘘も分からないほど「バカの壁」に突き当たっているからだろうか? だとすれば、養老孟司先生あたりにご教示を賜れば済むだけの話であって、じつはそう簡単にいかないのが、自分でも制御できない邪悪な心の無意識の「壁」であり、この壁によって四方を閉ざされた(表象)空間が今回の雅子妃問題を通じて紡ぎ出されるファンタジーなのである。
また、
唐突に聞こえるかもしれないが、ある意味、雅子妃問題は、従来の「冬ソナ」的ファンタジーよりも、NY同時多発テロのビル爆破瞬間に似ている。現実と空想の暗黙の境界線を文字通り「爆破」してしまったこの事件によって、「夢がかなう」(“Dreams come true”)という、ファンタジー法則によればあってはならない事態が現実に起こりえるということを私たちは知るはめになった。むろん、この認識がすぐさま行動に結びつくとは限らないし、知りたくないという居直りの立場から今後も知らぬ存ぜぬを装い続けることも可能である。「装う」というと、まるで演技をしているかような振る舞いをしていることになるが、当人が役者の自覚を持たないという点においては、雅子妃が自分のことをおそらく「悲劇のヒロイン」とはみなしていないのと同じ心づもりで私たちも演技に臨んでいるのだといえよう。ちなみに、こうした自覚を伴わない演技が営まれる空間をフロイトはかつて「ヒステリー劇場」と呼んだが、むろんこの場所は現存しない架空の空間で、それが彼のいう「無意識」である。
unconsciousを「否定意識」と訳すことの意義。
ただ、ここで注意したいのは、フロイトのいう無意識(unconscious)は、存在しないという意味では「無」だが、語の本来の意味(un)において「否定意識」と訳されるべき性質のものである。となると、何が何を否定するのか? 上記の「そんなこと予想だにしなかった」の話でいけば、そうしたあからさまな嘘を否定する主体が意識(現実)、否定される対象が無意識(ファンタジー)ということになるが、ことはより複雑で、この意味だけだと、どうしてファンタジーが否定され、無意識のなかに抑圧されなければならないのか、という理由が掴めないままである。「他人の不幸を願うのはよくない」からというのは一見理に適った説明だが、では、私たちは「不幸を願う」ほど雅子妃を憎んでいるのかというと、もちろんそうではないし、むしろ彼女を愛してやまないからこそ、言い換えれば、彼女を自身の鏡像として我がことのようにどっぷりと感情移入しているからこそ、彼女が自殺してくれるのを私たちが願っているとしか考えられないのである。ということはつまり、「否定意識」とは意識が無意識を否定するということではなくて、むしろ逆に無意識が意識を否定するのであり、しかも意識の何を否定するのかというと、「そんなこと予想だにしなかった」と平気で言える私たちの腐ったまでに俗物的な自我を否定するのであり、これをすり切れた良心の最後の証としての無意識が「しらばっくれるな! 嘘もいい加減にしろ!」と断固、糾弾するのである。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20060209/1139421186にある「怪文書」が引用されている。その具体的内容を引用したりすることは自粛するが、実は、こういうようなことは、当地に来てから、当地において噂話として流布しているということを聞いたことはある。ただ、ここで引用されている「怪文書」には明確な政治的党派性が刻印されており、引用している人は〈陰謀理論〉を用いつつ、それに対処しているのだが、私はその引用符を解く術は持っていない。
*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060209/1139452644
*2:因みに、「家父長制」といっても、皇室は所謂〈イエ制度〉とは関係ない。それよりも歴史的には古い層に属する氏族制といった方が適切だろう。実際、皇室は新民法によって、〈イエ制度〉が(建前としては)過去のものになった現在においても、〈イエ制度〉に対する(復古的な?)抵抗を続けているといってよい。〈イエ制度〉のロジックからすれば、〈皇位継承問題〉も今のような仕方では起こりようがない。そんなの、婿養子を取ればいいじゃん、で終わりである。ただ、状況的には、応仁の乱前夜の足利将軍家に似てなくもないとは思う。