京都新聞社「京都市なのに「京都」じゃない? じゃあ「京都」の範囲とは? 京都新聞の記者たちに聞いてみた」https://maidonanews.jp/article/14223805
曰く、
京都人のアイデンティティにとって、洛中洛外という区別とともに「御土居」というのが重要であるらしい;
「伏見区出身の人を『京都人』とは言わへんなあ」。え、どういうことですか、デスク? 京都市伏見区は行政区上、どう考えても「京都」ですよ。「いや『京都』ではないなあ」。じゃあ、山科区は? 「それも…、ちゃうんちゃう?」。そうなんですか? 私、滋賀県出身ですし、京都新聞社に入社してまだ日が浅いので分かりません。こうなれば、先輩記者に聞くしかない。京都新聞社のみなさん、「京都」はどこですか?
京都市のサイトからコピーしてみると、
京都市なのに「京都」ではないという扱いを受け「中心部に引け目がある」という謎。「御土居」が一つのポイントなのかな。でも、御土居って何だろう? 文化財担当の人に教えてもらおう。文化財担当記者(愛知県出身)「時代によって違うけど、今、よく言われるのは『京都の中心部』イコール『洛中』かな。豊臣秀吉が作った御土居の内側で、大まかに言うと北が鷹峯、南が東寺、東が寺町、西が西大路の範囲」
「鞍馬口」とか「丹波口」といった地名はこの「御土居」に由来しているわけね。でも、京都人は自らのアイデンティティの根拠が名古屋人に由来しているという事実をどう思っているのだろうか。また、洛中洛外にしても「御土居」にしても、鴨川*1は境界であって、鴨川の東側、現在の区でいうと、東山区や左京区は別の世界ということになっている。鴨川の河原が古来刑場として用いられてきたというのも納得できる。また、牛若丸と武蔵坊弁慶が五条大橋の上で出会うというエピソードがあるけれど、まさに境界線上の出来事だったわけだ。
御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。
台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。
江戸時代になると天下太平の世が続き,外敵の脅威もなく御土居は次第に無用の存在となり,また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され,北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。
昭和5年(1930),市内に残る御土居のうち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,また,広く我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定,昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が指定地となっています。
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005643.html
*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20171002/1506959528 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180617/1529198461 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/08/08/072120 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/27/081507 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/09/30/105918 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/07/084424 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/08/021918 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/02/21/074542 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/02/25/102731 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/02/27/081335 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/03/02/090522