「地方雑誌」と「思想史」(メモ)

長尾宗典「名もなき地方雑誌を求めて」『歴史書通信』(歴史書懇話会)248、pp.2-5、2020


日清戦争後から明治末にかけて、地域社会では、中学生*1などを中心とする文芸同人雑誌の発行がちょっとした流行となっていた」のだという(p.2)。小木曽旭晃という人の『地方文藝史』(教育新聞発行所、1910)では「約200種の地方雑誌が紹介されている」(ibid.)。


私が地方雑誌の存在を意識し始めたのは、大学院生の頃に関わった自治体史編纂事業においてであった。当時、茨城県筑波郡伊奈町(現・つくばみらい市)の町史編纂のため目録を繰っていると、ある家の旧蔵資料中に名古屋発行の『文壇』という雑誌があった。中身を確認すると、全国各地の少年たちの文章投稿によって作られた投書雑誌で、一見して著名な『頴才新誌』や『少年報』などの陶工雑誌をに模倣したものと思われた。
その後、東京大学明治新聞雑誌文庫*2茨城県発行の雑誌の追加調査をしていると、明治30年代に筑波郡で発行されていたその他の文芸雑誌にも、県外からの複数の投稿が見られることに気づいた。なかには複数の雑誌に投稿している常連投書家のような人物もいた。彼らは、雑誌を通じて誌上で互いを認識し、活発な文通を行って広範なネットワークを作り上げていたのだ。投稿雑誌の巻頭に顔写真が掲載されるのも、少年たちの自己顕示欲の表れだったといえよう。これは現代のSNSのようなものといえ、インターネットのなかった時代にさえ、明治の少年たちは大小さまざまな投稿雑誌に文章を送り、さらには自ら投書雑誌を発行して、筆名ないし匿名での同世代との交友に夢中になっていたのだ。博文館の投稿雑誌『文章世界』の撰者で、諸般の事情に相当通じていたと思われる田山花袋は、小説『田舎教師*3にも「投書家交際」を好む「地方文壇の雄」を登場させている。吉野作造も、雑誌『文庫』への投書に耽る中学時代を送っており、幾人かの文通仲間と「誌友交際」を楽しんだとする回想を残している。(ibid.)
田舎教師 (新潮文庫)

田舎教師 (新潮文庫)

     
歴史学としての思想史」にとっての「誌友交際」の意味;

一つは、思想活動を行う主体の問題である。通常、思想史という場合、体系的な思想を構想した知識人(頂点思想家)の著作を分析する方法と、時代社会の矛盾に直面しながら逞しく生きた民衆の思想をさぐる方法という二つがあり、歴史学では主として後者の立場に拠りながら研究が進められてきたように思われる。こうした動向に対し、『近代日本の思想をさぐる』*4各講では、もちろん著名な学者や官僚の思想も分析されるのであるが、むしろ地方出身で、地元で優秀な成績を修めながらも家庭の事情で苦学し、東京の私学を出るなどしてジャーナリズムなどを舞台に思想活動を展開しようとした人々たち*5を描き出そうとしている。それは頂点的な知識人の物語ではないが、中学校卒業程度の知的水準があり、生活の傍らで新聞雑誌の時事評論を読み、小説を愛好した人々であるという点で、いわゆる民衆思想とも少し異なった思想世界のあり方を取り上げている。拙稿では、彼らが、何を受容したかに焦点を合わせ、どのような史料の読み方によって解明できるのかを考えてみたのである。
歴史学としての思想史という意味では、二つ目に、思想を表現した文章を、「古典」として読むか、「史料」として読むかという差も方法的には大きな違いとなるように思われる。過去に書かれた思想著作を「古典」として読むならば、適切な校訂がなされた全集で著作を読み、過去の思想から現在のあり方を考えるという作業も、依然として重要な位置を占め続けるだろう。他方、史料とは、史的認識を汲み取る素材であるから、思想著作を歴史の史料として読む場合は、意見が表出された条件、環境、議論の射程を視野に入れつつ、ある時点においてその内容が書かれた歴史的な意義の研究に重点が置かれることになる。(後略)(p.4)
戦前の女性雑誌の投書欄から、少女たちの精神世界や社会的ネットワークを考察した作品として、川村邦光*6の『オトメの祈り』があった。ところで、少し前まで、ここで謂うところの「誌友交際」というのは、多くの雑誌において主要な機能のひとつだった。『ロッキング・オン』などでも文通欄というのがあったし、投書欄において行われる読者同士或いは読者と著者との交流(対決)というのも雑誌の風物詩のひとつだったわけだ。
オトメの祈り―近代女性イメージの誕生

オトメの祈り―近代女性イメージの誕生

  • 作者:川村 邦光
  • 発売日: 1993/12/01
  • メディア: ハードカバー