柿沼陽平『古代中国の24時間』

柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』*1を読了したのは昨年の12月。


プロローグ――冒険の書を開く
序章 古代中国を歩くまえに
第1章 夜明けの風景――午前四~五時頃
第2章 口をすすぎ、髪をととのえる――午前六時頃
第3章 身支度をととのえる――午前七時頃
第4章 朝食をとる――午前八時頃
第5章 ムラや都市を歩く――午前九時頃
第6章 役所にゆく――午前十時頃
第7章 市場で買い物を楽しむ――午前十一時頃から正午すぎまで
第8章 農作業の風景――午後一時頃
第9章 恋愛、結婚、そして子育て――午後二時頃から四時頃まで
第10章 宴会で酔っ払う――午後四時頃
第11章 歓楽街の悲喜こもごも――午後五時頃
第12章 身近な人びとのつながりとイザコザ――午後六時頃
第13章 寝る準備――午後七時頃
エピローグ――一日二四時間史への道


あとがき
注記

私の勝手な感想だけど、中国物ということでは、故井波律子先生*2の中国人物列伝、例えば『酒池肉林』とか『中国の隠者』とか『破壊の女神 中国史の女たち』などと同類の書として読むこともできる。勿論、扱われている時代は違うし、井波本が所謂〈有名人〉の
「伝」なのに対して、こちらの本は時代が「秦漢時代」に限定されているし、有名や無名の差別は設けておらず、何よりも人の生涯を追った〈伝〉ではない。しかし、従来の歴史であればアクセサリーというか非本質的なトリヴィアとされたであろう日常生活のディテイルを重視していることは共通している。勿論、著者は自らの作業を歴史記述の歴史という文脈に位置付けて省察している(「エピローグ」)。さて、本書の重要な「史料」の一部になっている「明器」についてメモっておく;

明器とは副葬品の一種である。古代中国の人びとは、死後の世界を信じ、それは生前に似た世界で、副葬品をもってゆけると考えていた。かりに大昔の君主ならば、亡くなるときに本物の奴隷やウマなどを殺し、さらには身のまわりの品々をすべて墓に入れることもありえたが、ふつうはムリである。そこで秦漢時代の人びとは、まるでシルバニアファミリーやレゴのおもちゃのごとく、人間・動植物・調度品などのミニチュアをつくって副葬した。これを 明器という。日常生活の復元にさいしては、これもたいへん重要な史料になる。(p.13)