- 作者: 川村邦光
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2004/07/08
- メディア: 文庫
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川村邦光『性家族の誕生』第1章「色情のエチカ」から。
増穂残口は「もと日蓮宗不受不施派の僧侶だったが、還俗し、一転して民間の神道講釈師になっている」(pp.39-40)。その主著の『艶道通鑑』(1715)は『近世色道論 日本思想体系60』(岩波書店、1976)に収録されている。川村氏が挙げている増穂残口についての研究文献は家永三郎「増穂残口の思想」(『日本近代思想史研究』岩波書店、1953)。
残口に早くから着目していた家永三郎によると、その思想は「恋愛至上主義」(「増穂残口の思想」である。とはいえ(略)男女間、それも”女夫”中心の”まことの心”や”情”に至高の価値をみいだしていたといったほうがよい。『艶道通鑑』では、「凡人の道の起こりは、夫婦よりぞ始まる」「夫婦ぞ世の根源と知れたるか。その夫婦和合せずして、一日も道あるべからず。道なければ誠なし。誠なければ世界は立ず」と端的に示されている。残口は「互いの愛し可愛きが、心からの真なり」といい、それが「夫婦の真」「陰陽*1の誠」だというように、貝原益軒に欠けていた、男と女のあいだの色の関係論を展開したのだ・
この「夫婦の真」の根拠は、イザナミ・イザナキの「陰陽交合*2」という、神話的モデルに求められている。陰陽和合・夫婦和合が世界の根本を成り立たせるのである。とはいえ、それは、陰陽神を介した、五穀豊穣・安産・下の病の平癒などを祈願する民俗儀礼・信仰から結晶されたものである。ここには民俗の知恵に依拠して、庶民的倫理・実践を昇華させた、民衆思想としての、夫婦和合の理論化というべきものの成長がみられる。
残口は、こうした「夫婦の誠」「夫婦和合」に立脚して、社会批判を展開する。金銭的な利害や打算にもとづいた結婚は、衣食住の欲や形式的・権威主義的な「礼」によるものであり、そこには「陰陽の誠」がない、と批判するのである。
この「陰陽の誠」のコアとなるのが、「恋慕の情」だ。「真から可愛実から最惜しく*3」思う「恋慕の情」、それにもとづいた夫婦こそ、「神人合体の夫婦」である。「恋慕の情」の前には、一切の束縛は断ち切られる。「互いに融し下紐の契り、いかでか真実ならざらん」と艶っぽい。こうした倫理意識が、秩序イデオロギーの批判へとおもむくのは必然だ。「恐れながら錦の褥の上、玉簾の内に住ませ給う御方より、陋しの賤山夫*4の身の上まで、分に従い程につけても、思いの誠に替わる事なし。……この道ばかりぞ、氏にも種姓にも因らず、思い逢たる誠を本として、その上に仲人ありて互の父母にも知らせ、世晴れて迎たらんは和も立ち札も整いて、何に憚ることあらん」と封建的身分制にまで批判の矛先を向けている。
残口はさらにラディカルになる。「今世に他の妻を犯して掟に触い、または首の代わりに金銀を立て所帯を失う者数多有り。……初めより骨を刻まれ肉を削がるゝとも、何を悲しまん。善悪共に思い極めなき者は、総て人に似たる猿ぞかし」と密通による厳罰をものともせずに、「恋慕の情」を貫けと過激に説く。残口においては、”夫婦”関係は家の永続のためにあるのではなく、あくまでも「恋慕の情」のゆえにある。”夫婦”とは、婚姻関係によってのみ成立するものでは決してない。「恋慕の情」をもつただの男女のことなのだ。
さらに、「今の世も売女の中に、金詰まり義理合いとはいえど、二人心を乱さで刃に臥す有り。脇目よりは狂乱の様に笑い罵れども、死を軽んずる所潔く哀れ也」と、「夫婦の誠」を貫くための心中までも礼賛するのである。「売女」も”夫婦”関係から除外されていない。「恋慕の情」を根拠として、不義密通・心中を是認するなら、これはもはや儒教イデオロギーを否認し、体制を揺るがすに足る思想だった。(pp.40-42)
国学(神道)の「夫婦」観についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090905/1252117392やhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101209/1291899124も。
残口の思想のキーワードとして、「恋慕の情」「夫婦の誠」などに加えて、さらに”色””色の道”がある。「色に愛で道を損じ義を破るは、人の常なり。……縦しは色に染て礼に背くとも、世の浅ましき欲に泥て道を喪う者よりは、遙に勝れたらんか」といい、「善悪は人にありて酒にはあらず・色の道もまた件こそ、娯楽の随一大和の源なれば、道に叶い誠に至らば何の科あらん。溢れて身を損じ溺れて家を失うは、人にありて色にはあらず。絶えて酒なく絶えて色無くば、仏の教えも神の誡めもあるべからず」とまでいい切っている。「恋は誠に叶う事の最第一なり、疎かに思う事なかれ」というように、恋も色道も、もはや色里の恋愛ゲームではない。「娯楽の随一」「大和の源」となる、民衆の倫理・生活信条として提唱されている。色情は男と女の関係性のなかで全面的に肯定されるのだ。残口の思想が、当時の民衆の生活意識・倫理的意識に依拠していたことは疑いない。そうでなければ、辻々で講釈しても、誰も聞く耳をもたなかったであろう。
(略)残口は、単なる夢想を説いたのではなく江戸民衆の現実的な生活意識を踏まえて、色情・好色を思想的な課題としてはっきりと形象化し、「恋慕の情」「夫婦の誠」「陰陽和合」に貫かれた、千年王国への妄想力を煽ったといえようか。それは、私たちの時代に失われてしまっている、性愛の思想であることもたしかだ。(pp.42-43)