「自由の社会性」(大澤真幸)

大澤真幸*1「自由の社会性」『本』(講談社)522、pp.54-61、2020


少し抜書き。


(前略)「自由」にも、社会性が本質的に帰属しているのだ。他者が本来的に存在していない世界で「私的にルールに従う」ということは、まったく何ごとも意味しない。同様に、純粋な私的自由というものは、まったくナンセンスで、自由そのもののトータルな否定ではないか。(p.60)

普通、この宇宙に、初めから私しか存在しなかったとしても、私には自由があると思われている。いや、私しかいない場合には――私の行動を妨害する者はどこにもいないのだから――、私に与えられる自由は最大値になる、とさえ思われている。私しかいないときでも、私はあれをしよう、これをしようと決断し、複数の可能な因果連関の中のいずれかを選び、現実化することで、自由を享受するだろう――一般には、こんな像が思い描かれている。しかし(略)可能な複数の道からの自由な選択を規定する「決断」なるものの地位は、きわめてあいまいだ。はっきり言えば、選択に先立つ「決断」なる事実は存在しない。選ばれた特定の行為を「規則に従ったもの」とするところの「規則」が、行為に先立っては存在しないのと同じように、である。
規則に従うことをめぐる逆説に対して、クリプキたちが与えた独特な解決――それを「懐疑的解決」と呼ぶ――、つまり命題Qという形式で規則を救出する解決を、「自由」という概念の理解にも応用することができる。私が為したことを何ごとかとして認め――何をしたことになるかを同定し――、それを承認したり否認したりする他者が存在するときはじめて、私の行動は、まさに(私にとっての)自由な行為となる。それを「自由な行為」とするのは、可能な選択肢の中から適切なものが選択されたという他者からの承認――あるいは不適切なものが選択されているという他者からの否認――である。この点では「規則に従った行為の選択」という場面と同じである。共存する他者からの承認・否認の視線を前提にできないときには、自由という概念は意味を失う。(ibid.)

(前略)自由とは、事後の観点から、時間を遡るようにして、私が何をしたのかを規定すること――そのことを通じてその行為の実現にとって有意味だった因果関係を遡及的に選択し措定すること――である、と述べてきた。このとき私が自己の行為に対して与える記述は、他者が私に対して差し向ける「あなたは何をしているのか」という問いへの回答であろう。つまり、他者が私に向ける視線を、私が私自陣に向けたときに、今述べたような意味での、自由が構成されるのだ。私の私自身に対する関係の源泉には、他者の私への関係がある。(pp.60-61)